共通の秘密

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 わたしはもうあきらめはじめていました。きょうは先生にのっかってしまって、いっしょになって日本の社会システムのすべてを批判したほうがずっと楽しくお酒を飲めるだろうな、思いはじめていました。こうやっていちいち先生の極論に対してバランスをとるような意見をいいつづけるということがいちばん疲れることでしたから。 「しかしね」先生がため息まじりにいいました。 「考えてもみてくださいよ。きょうとつぜん小林ミキくんが大橋ミキくんになるとだね、わたしが小林ミキくんと培った諸処の思い出は果たしていったいどうなるのかね?」  果たしていったいどうなるのかね、訊かれても困るわたしはただため息のような相槌を打つのみでした。そんなわたしを尻目に先生は急に能天気なトーンで、 「ま、小林ミキくんとわたしのあいだに大した思い出はないのだがね」  いってかかかと笑いました。わたしはふふふと微妙な笑いを返しました。  配ぜん係がワインを持って来ました。 「再開に乾杯」先生がいってわたしにウィンクを投げました。 「乾杯」  わたしはほかの学生がよくいっていたように先生の性格を面倒くさいと思ったことはありませんでした。むしろわたしは自分の父親とも母親とも百八十度ちがう先生のようなおとなにひかれていました。  わたしは田舎に住むわたしの両親の持つ純真ともただの無知ともいえるものごとへの考え方のほうにこそ疑問を持っていました。  わたしが大学に入ってすぐのころ先生が、 「テレビや新聞はひとがつくるもので憲法も法律もそれはおなじことだよ。ひとがつくるものに完璧なものなどありえない。だから世の中がおかしな方向にいかないようにわたしたちはつねに社会に対してクリティカルでならなければいけないのです」つづけて、 「ただしそれは政府や社会の足をとにかく引っ張るということではないのです。みなさんが『教養』を身につければ、ここでいうクリティカルであることと足を引っ張ることのちがいなどすぐわかるようになります」そこでわたしが、 「先生、それではわたしたちひとりひとりがその『教養』を身につけることによって社会はよりよくなるのですか」先生は、 「それは正直わかりませんな」わたしが、 「なぜわからないのですか」訊くと先生は、 「結果を強く求めることだけが教養の真の目的ではないからです」答えました。
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