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その日、世界は震えた。
平和を甘受していた人々の前に、突如として『魔王』を名乗る存在が禍々しき姿を晒したのである。
魔王――地方によってはイケメンだったり美少女だったりしてさっぱり風格の薄れつつあるそれだが、その日現れたのはそのような類のものとは一線を画していた。
浅黒い肌と尖った耳を持ち、見たもの全てを射殺す様な血の色の両眼を備え、それでいて概ねヒトと変わらぬ姿をとる魔王は、まさに人間の『悪』をそのまま象ったかのような存在として、あまねく人々に恐怖を与えたのだ。
「聞け人間どもよ、我は魔王、魔を統べるもの! 今ここに魔王軍の誕生と、人の世の破壊を宣言するものである! 貴様等人間の誇りと尊厳はこれより地の底深くにまで落とされるものと知るがいい!」
全世界に同時に現れた巨大な幻影は、幻影と分かってなお魔王の持つ強大な力を知らしめ、畏怖を植え付けるものだった。
だが。人々の中にはただ恐怖するばかりでない者も、確かにいたのだ。
人知れぬ世界の片隅、辺境の村にあって、ひとりの青年が『勇者』として旅立つ決意を固めたのである。
◇
旅立つ決意を固めたのち、勇者は静かに時を待っていた。
決して暇を持て余していたのではない。時を待っていたのだ。
「勇者たる者、やはりまずは王様に呼ばれなければ話にならないからな」
己の勇者に対する美学を貫き通そうとするこの青年は、とりあえず決意だけを固めておいて、後は偉い人からお声がかかるのを待つことにしたのだ。
勿論ただ待っているだけではダメだというのは一応この青年も分かっているつもりで、行動して名声を得ないことには、とは思っていた。
夜は生活費のための炭坑夫のバイトをしなくてはならないため、昼のあいだにノラ犬を一方的に懲らしめたり、子供のケンカに思い切り横槍をぶち込んだりして、身近なところから名を上げようとしたのである。
彼は一定までの努力は惜しまない一見して真面目な青年なのだが、実際のところ、ただの真面目系クズであった。
炭坑夫のバイトもそれなりに長いのに給料は上がらず、村のはずれの古い集合住宅の家賃を払うだけで精一杯。外に出たら出たで住人のほとんどに白い目で見られる――そんな『勇者』にも、あるとき転機は訪れたのだ。
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