72人が本棚に入れています
本棚に追加
そして、日記の最後のページ。
“昭和三十年 八月十五日――
信三さん。貴方が東京からお越しいただいた事、陰から窺わせていただきました。
私のお墓参りにきたとの事。
お許しください。里は、貴方と母との会話を盗み聞いておりました。
来月、貴方はお見合いをするそうですね。
その前に私に断りをしたいだなんて。
貴方らしくて、おかしくて、嬉しくて、そしてなぜだか涙が流れてしまいました。
なぜでしょう。
貴方が幸せになることはとても嬉しいことなのに。
一つだけ、我儘を許してください。
私も今日、決意しました。
あなたに教わった料理。
この味をこちら、広島でも広めさせていただきます。
ずるいかもしれませんが、貴方と見た夢、それだけはこれからもひとり、見させていただきます。
どうか、どうか。”
・・・・。
「そうか、だからこのお店の名前、“ひとり夢”なのね。なっとく」
一人、久美さんが口を開きます。
久美さんは、僕の席から立ち上がり、カウンターの中へ。
そっと手を伸ばすと、新しく並べた“伊右衛門”の皿を優しく手にとります。
((おいわちゃん))
「信三さん。ありがとう。お皿、ちゃんと受け取ったわよ」
((こいわちゃん…さと、、里かい?))
「そうよ、里よ。素敵なお皿ね」
((里…。よかった、気に入ってくれたかい?))
「もちろんよ。信三さん」
((よかった…。よかった…))
すっと伊右衛門さん、いや、信三さんの気配が薄くなっていく。
((ありがとう…久美さん…黄昏さん…))
・・・。
気配が消える…。
「久美さん、なにか聞こえたの?」
「いいえ、なにも。でも、なんか信三おじいちゃんの声が聞こえた気がしたの」
「そっか」
「うん。ちゃんと、生きてるうちにお礼が言えなかったのが残念だけど…。こんな素敵な事ってないじゃない?」
「そうだね。久美さんのお礼の気持ち、ちゃんと届いてるよ」
「そう?」
「うん。倉田さんの声、僕にも聞こえた気がしたから」
「ありがとう。黄昏さんに言われると、ほんとにそうだったんだって気がする」
久美さんと目を合わせて微笑みあう。
「ね、おかあさん!お店の名前、変えない?」
「え?変えるって、なんて?」
「“ひとり夢”じゃなくて、“ふたり夢”」
「…そうね。いいかもね」
「でしょ」
最初のコメントを投稿しよう!