坂崎手芸店員の憂鬱

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「お姉ぇちゃーん、待ってよ、おねえちゃーん!!」 手芸店を出たとたん、保の耳にかん高い男の子の声が飛び込んできた。 「早くおいで、転ばないでよ」 先を行く少女が、男の子に呼びかけ、保たちの目の前を男の子が嬉しそうに走り抜けて行く。 全力疾走の男の子の起こした風が、保たちの前にふわっと懐かしい空気を送ってきた。 ゛あれ?゛ 「おーお、たもっちゃん2号だな」 クスクスと笑いながら呟いた廉を横目で見ながら、保はさっさと歩き出す。 ゛知っている、この匂い…おばあちゃんの匂いだ゛ 母を早くに亡くし、仕事で海外出張ばかりしている父に替わって、幼かった保と姉は、祖母に育てられた。 小学校が終わると、保はいつも祖母の手芸店2階奥の部屋にいた。 おやつを食べ、宿題をして、それが終わって暇になると、手なぐさみに店のキットをもらって手芸をした。 初めて作ったのは、ペーパーフラワー。 次はばってんの刺繍で形をつくる、クロスステッチ。 それから、ふわふわの茶色い毛皮を縫う、犬のぬいぐるみ。 おばあちゃんの手芸店の2階は、少し空気がこもっていて、フェルトと刺繍糸と綿の匂いがいつもした。 騒がしい学校から戻って2階に上がると、心からほっとした。 安心できた。 その、平和で穏やかな空気の中で、姉はいつも隣にいてくれた。 色とりどりの布を選んで、俺に千鳥かがりを教えて、アフガン編みの増やし目を教えて、優しく笑ってくれた。 母が死んでも、父がほとんど日本にいなくても、姉さえ側にいてくれれば、俺はノープロブレムだった。 それなのに、いま、姉さんの隣には、俺の大嫌いな所長が笑っている! ああ、思い出すと、まーた、ムカついてきた。
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