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十月二十日、午前7時頃。早朝から出かける俺をわざわざ見送るために玄関前まで拓海が外に来てくれていた。
「じゃあ、行ってくるよ。麻悠。」
「うん、いってらっしゃい。」
そう言って、俺達は挨拶を交わす。
一応念のために言うと、暗黙の了解の上で外向きでは俺と麻悠が暮らしているということになっているので、はたから見れば夫婦同士として接している。そのため、俺は現在の拓海のことを『麻悠』と呼んでいるのである。補足していうと、彼もまた俺のことを『涼太』もしくは『あなた』と接し、外向きでは麻悠のふりをしているため、男言葉を使わないようになるべく女言葉を心がけているらしい。
挨拶を交わした後にいざ向かおうと、俺が拓海に背を向けた瞬間、
「あ、ちょっと待って。涼太。」
と、拓海は何かを言いたそうにして呼び止める。
「ん?なんだよ?」
そう言って俺がもう一度振り返ると、拓海はいきなり俺の首を回すように飛びついて抱きついてきた。急に抱きついて何が起こったか分からなかった俺は、突然の彼の行動にどぎまぎしていた。それを三十秒ぐらいした後、ゆっくり俺の元から離れ、拓海は笑顔でこう言う。
「いってらっしゃいの、ハグ。忘れてたよ。」
「あ、あくまでキスじゃないんだな……。」
苦笑いで答える俺に対して、「そこまではしないよー」と女性らしくくすくす笑ってからかう拓海。そして、
「じゃあね。」
と、手を振って笑顔で送ってくれた。俺も同じように手を振った後、真っ直ぐ向き直り会社へと向かおうと歩いていく。
そのとき、俺はふと先程拓海が抱きついてきたことを思い出す。
なぜ、俺はあのとき一瞬、心臓の動きが早くなってしまったんだ。相手は拓海のはずなのに。中身は男のはずなのに。身体が麻悠だから鼓動が高鳴るのか。見た目が麻悠というだけで、そんな安直なものなのか。否、それは絶対に違う。なぜならもう麻悠はいないのだ。麻悠は拓海の命と引き換えに死んでしまったのだ。だから、俺が拓海に何か友情以外の感情を抱いているということは、恐らく気のせいだ。そういうことにしよう。
自分の気持ちを整理した俺は、改めて無心で会社へと向かった。
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