第1章

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「あの年は私、一番生きてて一番死に近い時だった」  彼女は言う。まだ家具も何もない部屋で新しい白い壁に寄り掛かって、1つのイヤホンを分け合って音楽を聴いている。同じ曲を聴いているはずの彼女が涙を流す。僕は涙は流れない。君は僕の知らない時を生きてきた。どうやったってそれは分からない。その時の君には会えない。 「あまり大きい部屋だと掃除大変だからさ」  そう言ってるけど、僕は知ってるんだ。ほんとはもっと大きな部屋に住みたいんでしょ。ほんとは僕じゃない人がいいんでしょ。  君はいつも思ってることの反対を言うね。気づいてるんだから。君は毎晩イヤホンで曲を聴いて、一人で涙を流す。でも僕の前では決して泣かない。自分のことはだめだって言うくせに、僕のことをほめる。  君は過去を話したがらない。僕は知りたいのに。昔のことを振り返るのに話してくれないのはどうして? 「受け止められないでしょ」  そんなことないよ。 「全く違う道をたどってきたんだもん」  二人の気持ちはいつもすれ違う。決して交わることのない円。    外に出たら風がまだ冷たかった。季節は春。春と言ってもまだ3月だから、冬の匂いが残っている。雪が道路の端々に小さな山になって固められていて、それでも来週には桜が咲くってテレビでは言っているんだから不思議だ。春は好きだ。学生の頃は春という季節があまり好きではなかった。4月にはクラス替えがあるからだ。新しい友達を作るのも、新しいクラスに馴染むのも、僕は苦手だった。希望と不安が入り混じった季節。心にまだ冷たいすきま風が通り抜けるから、春の風も嫌いだった。あたたかいふりをして、すぐ冷たい顔を見せる。  僕たちは、森へと続く道を、ただひたすらに歩いていた。  社会人になって一年目の去年は、不安がいつにも増して強かった。初日を迎えるまで毎晩心臓がじんじんして喉の方に迫ってくるような気がしていたし、だからご飯も喉を通らなかった。でも今年は違う。安心して春を迎えられたのは初めてかもしれない。  森に着いた。歩いて20分ほどのところに森はある。彼女は一人で先に行ってしまった。それでも、木の間を歩きながら、時々僕の方を振り返る。  僕はゆっくりと歩く。森の入口から少し入ったところで、澪は立ち止まった。さっきから一本の木をじっと見てる。
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