三.箱の花、過去の花

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 きちんと敷いた布団のうえで目を覚ますと、身体がどこも痛くない。悪条件の下を知っているからこそ得られる幸福感だ。不幸せと比べなければ、ひとは幸せを実感できないのかもしれない。  父が使っていた部屋で、押し入れの奥に仕舞ってあった布団を敷いた。大した眠気も来ていなかったが「寝転がる」ということを暫くしていなかったせいもあり、風呂も忘れて少し身を委ねることにしたのだ。それが起爆剤となったようで、触ろうとしていたノートパソコンを触ることはおろか、鞄から取り出すこともできずに深い深い眠りに落ちた。異常なまでの今季の涼しさは寝汗をかかなくて済むから、寝起きが爽やかで助かる。  台所の方でジューと、何かを焼くような音がする。時計を見ると時刻は7時を過ぎたあたりだったので、もしやと階段を下りると妹が朝ごはんの支度をしていた。制服姿にエプロンを付けているのが、家庭科の授業のようで少し可笑しい。けれど普段からの習慣なら否定するのも悪い気がしたので、言及はしないことにした。「おはよう」と声をかけると、やや驚いたのか背中が跳ね、「あぁ、おはよう」という声がフライパンの焼く音に負けそうになりながら耳に届いた。  昔は妹の方から喧しいほど声をかけてきて鬱陶しかった。しかし、互いが大人になった今、何を話せばいいのか分からなかった。帰ってきた理由が理由なのもあるかもしれない。「学校はどうだ」という家族特有の台詞を放つのは有り得ない。ただ、知らずにそんな常套句を並べて深い傷を負わせなくて済んだのは、不幸中の幸いかもしれなかった。  ストレートの黒髪は、幼いころのものよりずっと長く、背中にまでかかっている。この年齢で、煩く言う親族がいないのにも関わらず、髪は一切染めていないようだ。今時の高校生なら、とも思ったが、こんなに台所を綺麗に扱う人間がグレているはずもないかと、いつも頭の外にいる父にこの時ばかりは感謝した。  後ろ姿にかけようとした言葉は「髪は染めないのか」とか、「彼氏はいないのか」とか突拍子もないものばかりで、「近所の誰々さんはどうした」というのもどうでもいい。「脚、綺麗だな」というのはさすがに変態すぎる。結局喉は震えることもなく、続き間にあるテレビを付けて、声を出さない理由を埋めた。火を止めた家の中には、少々元気すぎるアナウンサーの声ばかり響く。
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