第5章

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「お前に予定があるなんて珍しいな。真夏に雪でも降るんじゃないか。まさか女じゃないよな」  本気ではなかった。イベントが目白押しの夏場の稼ぎ時だ、弱小イベント会社はこの期間にこなしきれないほどの仕事をこなさなければやっていけなかった。経営者の猿田社長自身もここ2ヵ月間休みらしい休みをとらずに一労働力として働いていた。人を雇えばいいことだが大手イベント企画会社の下請けの下請けというイベント屋旅団にはそう簡単に人件費を増やせるほどの余裕はなかった。愚痴が出るのは理解できた。普段なら二つ返事で猿田の頼みを受け入れるところだが断らざるをえなかった。高原洋子に会う約束を反故にはできなかった。 「すみません。今日だけはどうしても。この埋め合わせはしますから」 「なあ、1時間いや30分で良いから。頼むよ」  丈太郎に警備員の仕事をやらせるぐらいだから、よっぽど急な仕事で人手も集まらなかったのだろう。猿田社長は丈太郎を拝むように手を合わせた。 「すみません。もうあまり時間がないんであがらせてもらいます」  洋子にあう前にできれば一度アパートに帰ってシャワーで汗を流して着替えぐらいしたかったがもうそんな時間はなかった。待ち合わせ時間にもぎりぎり間に合うかどうかだった。  猿田が舌打をした。 「勝手しろ、もう頼まん」  丈太郎に背を向けた猿田社長の背中にむけて一礼してからもう一度「すみません」と言って撤去作業でざわつく会場を足早に去って行った。  洋子が指定したイタリアンレストランはシンノーファーマからさほど離れていない神宮寺町の表通りに面した小さなビルの地下にあった。月穂と交際していた時にイタリアンレストランというものには二度ほど行ったことはあったがさほど手の込んでいないピザやパスタ料理が思いのほか高かった印象しかなかった。  洋子が指定した店は丈太郎が月穂と行った店よりは少し上等な店だった。高級フレンチほどではないにしろドアを開ける前にやっぱり着替えぐらいはしてくばよかったと丈太郎を後悔させた。こんなこともあろうかと一応ジャケットは羽織ってきたが、その下は仕事着のTシャツにジーパンばきで少し気が引けた。
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