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ジウの入厩に先んじること、およそ半月。
世間的にはゴールデンウイークが終わり、ようよう落ち着きを見せ始めた時期。そんな時分に一頭の牝馬が、栗東は遠野(とおの)厩舎の一員となった。
父親のクレイジーアップルは曾祖父にシンガイエスタデイフォーユーを持ち、自身も日本ダービーを勝利した名馬である。対して母親のエゴイスティックシューターは、アメリカでトリプルクラウンを筆頭に五つものGⅠを戴いた名牝だった。日米の名馬が生み出した、いのちの結晶。
名前を、ライジングホープといった。
美しい青毛の馬体が特徴的なその馬は、『巨人』碓氷宗徳が今年最も期待をかける所有馬だった。
「遠野さん」
ライジングホープの入厩に合わせて栗東を訪れていた碓氷が、遠野に声をかける。碓氷と遠野といえば、前人未到のダービー三連覇を筆頭に、競馬界に数々の金字塔を打ち立ててきた名コンビである。礼儀を立てたその声にも、親しみがあふれていた。
「碓氷さん」
お久しぶりです、と遠野が手を差し出すと、碓氷はそれを握って力強い動作で小さく二度、上下に振った。
「ホープは到着したかい?」
碓氷の質問にええ、と答えて、遠野は厩舎のほうにちらりと視線をやった。ライジングホープはつい十五分ほど前に遠野厩舎に到着して、今はあてがわれた馬房でのんびりしているころだろう。
「長旅の疲れもなく、元気でしたよ」
遠野の、そんな何気ない言葉に碓氷は満足そうに目を細めた。競走馬にとって、長い距離の移動を苦にしないというのは大きな武器になる。競馬場は日本全国に点在していて、そこを転戦していくのが常である以上、そういう精神面の太さというのは超一流馬になるための必須条件といえるだろう。
「どう、思う?」
「少なくとも、うちの二歳では一番でしょうね」碓氷の質問に、簡潔に、しかし求められた答えを的確に返す。「見た目はお母さんのエゴイスティックシューターにそっくりですけど、おとなしいところなんか父親に似ていますかね。大和撫子、って感じです」
「実際はほぼ完璧にアメリカ娘だけどな」
冗談を言っておかしそうに笑う碓氷に、遠野も倣う。父親のクレイジーアップルも、もとを糺せばアメリカの血筋に帰結する。たしかに生粋のアメリカ娘だ。
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