プロローグ・雨の祝福

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 三月の終わり。  その日は朝のうちから早春に似つかわしくない地雨が、さあ、と音を立てて淑やかに降り続いていた。慌ただしい出産の季節に気まぐれに訪れた、空白のような雨から、物語は始まる。  赤松牧場は北海道は早来にある小さな牧場で、競走馬の生産、育成を生業としている。  この年、赤松牧場の出産は早くも終わろうとしていた。例年であれば長ければ五月の半ばほどまで出産が続くものだが、今年に限ってはずいぶん早く、それが終わろうとしていた。 「今夜あたりかしらね」  誰に問うでもなくそう漏らしたのは、四十半ばほどに見える女だった。彼女は名前を赤松芽衣子(あかまつめいこ)といい、牧場の主である英輝(ひでき)の妻である。 「ランコの様子からして、そろそろだろうな」  英輝が窓の外を気にしながらそんな答えを返す。ランコというのは今年の赤松牧場で唯一出産を終えていない牝馬のことで、かつてはオルビテーエという名前で中央競馬のレースを走ったこともある馬である。 「少し、様子を見に行ってくるよ」  英輝はハンガーに掛けてあった紺色のジャンパーに袖を通し、そう言い残して外へ出ていった。ランコの馬房へ向かったのだ。  英輝がそうして馬房へ向かうのは、今日だけでもすでに十回を数えていた。ここ数日、出産の兆候はあるものの産気づくには至らず、という状況が続いている。過敏になっているのかもしれない。  芽衣子も少し、思うところはあった。今年出産を控えている最後の一頭、ランコが宿しているいのちは、赤松牧場の歴史を紐解くうえで非常に重要な部分を担うことになるからだ。  かつて、英輝の祖父がこの赤松牧場を立ち上げたとき、そこには一頭の牝馬がいた。ランコはその血を引くたった一頭の馬で、今年生まれるのはそんな彼女の初仔だった。  窓の外の宵闇は、いつもよりも濃いような気がした。雨が降っているせいかもしれない。  思えば、この一年はずいぶんと雨が多かった。雨が多い年は名馬が生まれる、という俗説があるが、今年の子達はどうだろうか。  砂をこぼすような音が、夜を覆うように響いている。それに耳を傾けながら、芽衣子はそんなことを考えていた。
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