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英輝がなかなか戻ってこないことに気付いたのは、時計の針が百八十度ほど動いたころだっただろうか。
それまでの見回りは、長くても十五分ほどで終わっていた。実際にどれくらいの時間が経ったかは定かではなかったが、その時間は優に過ぎているだろう。
いくらなんでも遅すぎる。
そう思った芽衣子は、自分もジャンパーを手に取り外に出た。風が強い。傘を射していこうかとも思ったが、時間が惜しい。それに、この風だから傘を射しても濡れてしまうだろう。
厩までは歩けば五分ほどだ。懐中電灯を手に、その道程を行く。
雨が宵闇をより色濃くしていた。懐中電灯の光はいつもより遠くを照らしてくれない。こうして夜中に見回りをするのは珍しいことではなかったが、びょおびょおと風が吹く中を歩いていると、そんなはずはないのに迷ってしまいそうな気がしてくる。
ぱつぱつと小粒の雨がジャンパーを叩く。時折、懐中電灯の光に銀色の糸が映る。あっという間に体が冷えていく。
やがて、厩が見えてきた。それほど大きくないこの建物の中には、十頭ほどの繁殖牝馬が繋養されている。今は、その子供たちも一緒だ。
果たして厩の入り口には、黒い大きな傘が立て掛けられていた。英輝の傘である。どうやら、彼も無事に厩まで辿り着いてはいるようだった。ごく当たり前のことだったが、芽衣子はその事実に妙に安心した。
「英輝さん」
声をかけながら厩に足を踏み入れると、蛍光灯の白い灯りがぼう、と厩を照らしていた。何度も見たはずの、その風景が、今日は少し特別に見えた。
かすかに、苦しそうな啼き声が聞こえる。お産のときの声だ。ランコが産気づいて、出産が始まっていたのだ。
ランコの馬房に入る。足元で寝藁がくしゃ、と鳴った。いのちが産まれるにおいが、そこには濃厚に漂っている。
英輝は芽衣子に背を向けて、ランコと向き合っていた。その背中からは焦りは感じられない。出産は順調に進んでいるらしい。
ランコは時折、苦しそうに前脚をばたつかせた。寝藁と、呼吸が乱れる。難産の部類ではない、と芽衣子は経験から推測した。
雨の音が馬房の中にまで侵入してきていた。祝福するような雨音が、あっという間に馬房を満たした。
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