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1・雨を連れてきた馬
うっとうしい雨だな、と一色要(いっしきかなめ)は思った。
五月の半ば。今日は要が所属する厩舎に競走馬が一頭預けられることになっている。そんな日だというのに、あいにくの雨。気持ちが上向かない。
競走馬を管理、育成する施設であるここ、栗東トレーニングセンターは、この時期だと朝の六時には起き出して、午後の早いうちに一日を終えてしまう。そのため、今日のようになんの予定もない日には暇を持て余してしまうこともあった。もっとも、それはここだけでなく、東の美浦トレセンや地方競馬の育成施設でもきっと、同じことだろう。
要は、中央競馬では珍しい、女性のジョッキーだった。男社会の競馬界において、女性の関係者というだけでもかなり珍しいが、その中でもジョッキーとなると、地方競馬まで見渡してもほとんど存在しない。男でも生き残ることが困難な世界で、女がどうなるかといえば、推して知るべしということである。
要はまだ厩舎の事務所に残っていた。予定がなくなると帰宅するのが常だったが、今日はこれから二歳馬が一頭入厩する予定になっている。それを見届けてから帰ろうと思っていた。とはいえ馬運車が来る気配はまだない。暇を持て余して事務所のソファでうだうだしているくらいしかすることがない。こんなことなら一度帰宅すればよかった、と要は思った。
蛍光灯の白い光に、自分の手をかざしてみる。小さく、細い手。騎手という人種は一般的に小柄で、女性である要が身長で目立つことはない。しかし筋力となれば話は別になってくる。どうしたって男性にはその部分で劣ってしまう。
三年間で、三十八勝。五人いた同期の中では悪くない成績だ。もっと勝ちに恵まれていない同期だっている。しかし、レースのあとに痙攣して小刻みに震える自分の手を見るたびに非力を感じる。同じレースに騎乗していた同期の男は、次のレースにも平気な顔をして出ているのに、自分にはきっと、それができない。そのことがたまらなく悔しい。
要が自分の掌で翳る蛍光灯の白さを茫漠と眺めながらそんなことを考えていると、事務所のドアが開いて誰かが入ってきたようだった。
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