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『私の母は不倫しているんです』
『は?』
『父は毎週金曜日、駅裏のヘルスに通ってます』
『溝口……』
『母の不倫相手は高校の同級生で、父よりもカッコイイんです。父のお気に入りの風俗嬢はカンナって名前で、そう、私と同じ名前で、そのヘルスは高校生のコスプレで……それで』
そこまで言って私の目から大粒の涙が溢れ出した。
でも及川先生は黙って私を見ている。
『母は毎日ご飯を作ります。スーパーのお惣菜を、作ったフリをして。私は騙されたフリをして食べます。父は手作りと信じています…父も母も互いのしている事を知っていて……なのに、同じスーパーのお惣菜を…食べるんです…』
ボロボロと溢れ出す涙を及川先生は黙って拭った。
彼は私と同様、別に慰めの台詞を吐いたりしなかった。私にはその方が楽だった。慰めの台詞や両親を卑下、擁護する言葉なんていらない。ただ、黙って真実を聞いてくれるだけでいい。
母の不倫に気付いたのは夜10時に鳴る携帯からだった。
父の愚行に気付いたのは駅前で会った時の顔が違ったからだ。
私達は同じ家に住んでいるようで、本当は違ったのかもしれない。
私だけ築15年の分譲マンションの一室に囚われていて、2人はただその一室に顔を出しにきているだけなのかもしれない。2人が間違って生産してしまった『私』の世話をするためだけにあの分譲マンションの一室は用意されているのだ。
『それが、本当の死にたい理由?』
『もう死んでるんでしょ?私』
『溝口……』
『あ、先生、テッペンですよ』
私は涙をぬぐって下を指差した。横浜のチンケな夜景が目に入る。私達が生きている世界は意外としょうも無いものなんだろう。夢とか希望とかを食い散らかすのは私達の黒い感情だ。この街はそんな感情に食い潰されていて、光るのは街灯の明かりだけ。
及川先生は下を見て、ゆっくりと目を閉じた。
‘'目を閉じて、息を吐き、死を想像してみてください
もしかしたら君はもう死んでいるのかもしれません”
先生が書いた言葉を思い出した。
私も目を閉じてみる。そこには、あぁ……
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