第1章

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数学に対する執着は残っていた。 最初に 「ボクは数学が苦手なのだろうか?」   と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きく、男子クラスがあり私は男子クラスに在籍していた。   当時、男子は理系に進むのが大多数だった。その中にあって、テストの度に数学が壊滅的な点数になっていた。全国の模試なら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどうしても周囲の子と点数を比較してしまう。平均点と比べてしまう。   点数だけでもない。三角関数、対数、微積分と進むにつれて 「もうボクの頭には入りきれない」   と友人にぼやいていたのを思い出す。物理で13点を取り、 「こんなのありえない!」   とショックを受けて、クシャクシャにして捨ててしまった。私は数学の公式を使う場合に、 「証明できないと、使う気になれない」   というタイプだった。今思うと、それでは前に進めない。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり気持ちが混乱し始めた。そして、1974年の大学受験の5日前を迎えた。   2階の勉強部屋で数学の勉強をしていたら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ちてしまった。そして、 「お父さん、ボク変だ」   と叫んだ。二回に駆け上がって来た父は、ひっくり返った亀のように手足をバタバタしている私を見て 「お前、何をしてんだ」   と言った。そして、近くの総合病院に担ぎ込まれた。 病院の看護婦さんは、私の手足を押さえつけながら 「アレ?高木くん、どうしたの?」   と言った。北勢中学校の体操部の先輩だった。   診断は、神経衰弱。いわゆるノイローゼとのことだった。私は頭が狂うことを心配したが、医者が言うには 「そういう人もいるが、身体に症状が出る人もいる」   とのことだった。   そうした経験を通して 「自分は、どうも文系人間らしい」   と覚悟した。それで、名古屋大学「教育学部」で勉強している時に 「自分は先生かなぁ」   とボンヤリ思っていた。それで、卒業後は英語講師として勤務を始めた。数学に触れるのは、自分にとってタブーになっていた。それから、20年ほどひたすら英語の勉強をしていて数学は求められて中学レベルだけ指導をしていた。民間では、英語講師だけでは仕事が得られないのだ。
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