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隣に引っ越してきたのは。
正確には、きていたのは、であるが。
幼い子連れの若い一家だとか。
夕餉の際に「奥さんが、地元の人でね…」云々。仕事帰りの娘が妻に喋るのを聞いた。都会の雰囲気の明るい家族で、感じは悪くないとか。
娘がビールに口をつけたタイミングで、自分も会話に加わる。
「挨拶は、無かったぞ。」
「え?」娘が缶を置き、怪訝そうな顔をした。
「あんたが聞こえんかっただけやん!昨日お子さんも連れて来たわ!」妻だ。
「本当に聞こえんのやなァ。昨日お母さんが言いよったやろうに。」娘が呆れ顔で大根の漬物を箸で摘む。
しまった、しまった。ジジイが不用意に口を挟むんじゃなかった。2歳年下の妻と娘に口撃を食らい、自分が要らぬことを言ったのだと察した。
「そりゃ悪かった。」老いぼれた小さい肩をすくめ、茶碗に残ったきのこご飯をかき込んだ。最後の一口にしては多く、途中でむせた。しめじが大きかった。
「補聴器早よ買いなえ。お金あげるから。」お茶を入れてくれながら、娘が数十回めのセリフを言う。
「へぇへぇ。もう何も言いめぇ。ご馳走さんでした。」娘の入れたほうじ茶とともに、色々と飲み込み食卓を去る。背後から、娘と妻の笑い声が聞こえた。話の内容は分からない。聞きたくもない。どうせ俺の悪口でも言ってるんだろう。
しかし、すっかり耳の遠くなったことだ。
日がな一日、家にいるのだが。引っ越し業者が来た音も、お隣が挨拶にきてくれたらしい事も、まるで聞こえていなかったのだから。妻と娘の食卓での会話も仔細が掴めなくなって幾年経つ。こうやって、世間は狭く閉じていくのだろうか。86歳にもなれば当たり前か?70代の頃は運転にも自信があったし、もっと広い世界に生きていた気がする。なんだか急に寂しくなって、飼い猫に話しかけた。「なぁ、シロ」「…にァ」老人と同列にされたことに、シロは機嫌を損ねた様子。プイッと尻を向け、向こうの部屋へ行ってしまった。シロ、お前も俺と同じぐらいの齢だろう?
…寂しい。自分の言葉に猫も杓子も機嫌を損ねてしまう気がする。みんな離れていく。「あゝ。」ふと食卓に目をやると、娘の旦那が帰宅して、何やら娘に怒られているところだった。もうすぐ還暦だというのにブロッコリーでも残したのだろう。仲間を得たように少し嬉しくなった。我ながら嫌なジジイである。
閑静な住宅街に、夜が降りた。
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