第1章

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 一人分の洗濯物をベランダの物干し竿にかけ、私は額に滲んだ汗を腕で拭った。小春日和の快晴だ。夕方前には乾いてしまうだろう。二月の寒い季節を終えて、晴れた空から降り注ぐ陽光も温かい。私の心もやる気に満ちてくるようで、今日の昼食は何を作ろうか、と今からぼんやりと考え始めてしまう。  大学進学と同時に家を出て、今は気ままな一人暮らしの身。男で一つで私を育ててくれた父を一人残してきたのは今でも少し気になるが、先月大学の春休みを使って帰省したときも私と同じように自由にやっているようだった。男やもめに蛆が湧く、とは言ったものだが、父はどうにも家事の方が性に合っているようで一人になってもあまり困るようなことはないらしかった。  一休み、と父から譲り受けた事務用の簡素な机の前に腰をかけ、インスタントコーヒーを啜っていると、隣から何やら床を叩く音がした。 「新しい住人が来たらしいな」  都心から外れたワンルームのアパートではそれなりに人の出入りが激しいものだ。特に二月から四月は進学、就職の波に合わせて住人が総入れ替えするということもありうる。私の隣人もその例に漏れず、どこか新しい場所へと旅立っていった。  以前の隣人はおそらく私より年上の大学生か、専門学生の男だったようだ。おそらく、というのは外れとはいえ東京の一角であって、人付き合いが希薄なせいで真正面から話したことがないからだ。すれ違えば挨拶くらいはするが、今でも顔ははっきりとは思い出せないほどの間柄だった。  壁が薄く、音がよく漏れてくるので、隣の部屋で行われる宴会のような集まりで何度も眠りを妨げられた。もちろん私も同じように彼の安眠の邪魔をしていたので、お互い様ということでどちらも何も言わなかった。 「さて、次はどんな人物だろうか?」  どうせ転居の挨拶にくるわけでもなし。勝手な想像をしてどの程度当たるかくらいの楽しみは許してもらいたい。  そうだな、この時期に来るのだから進学でこちらの大学に来たのか、あるいは就職したか。ここは家賃も安いのが魅力だし、きっと若い人だろう。ここは二階だから女性の可能性もある。大きな物音が多いのは持ち込んだ衣類が多いからかもしれない。
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