第1章

3/8
前へ
/8ページ
次へ
 そんなまだ見ぬ隣人の姿を思い浮かべながら、私はゆっくりとコーヒーを啜っている。私はコーヒーが好きだった。父が酒を嫌って、いつもコーヒーを飲んでいるのを幼い頃から見ていたからだろうか。よく父に頼まれてインスタントコーヒーを淹れてやったものだ。心を安らげるものはすなわちコーヒーであると、刷り込まれてしまっているのだ。  やがて隣の物音が静まり、私がそろそろ昼食の準備を始めようかというところだった。小さなワンルームの部屋には大きすぎるけたたましいチャイムの音が響いた。何度聞いてもこの音には慣れないものだ。小さな音ではその役割を完遂できないということはわかるが、それにしても急に鳴ると、思わず体を跳ね上げてしまう。  しかし、いったいこんな時間に誰だろうか。宅配便が来るような予定はない。父が気を遣って何かを送ってくることもないだろう。何かの勧誘だろうか。無視しても構わなかったが、ベランダにはさっき干したばかりの洗濯物が太陽の光を浴びている。むやみに玄関の前で居座られても面倒だ。 「仕方ない、出るか」  読みかけの本を閉じ、私は少し気だるく感じながらも玄関の扉を開けた。さぁ、どうやって断ろうか。と玄関先に立った人の姿をまじまじと見た。スーツの男だろうと高をくくっていた私の目に入ってきたのは黒髪の女性だった。思わず扉を開けた無理な体勢のまま見つめてしまった。私よりずいぶんと小柄な目鼻立ちのしっかりとした人で、呆然とする私の姿を変に思った素振りも見せず、小さく頭を下げた。 「隣に引っ越してきた西山と言います。これからどうぞよろしくお願いします」  なんと隣に越してきたのは女性だったか。しかもこんなに礼儀正しい人だったとは。勝手な妄想を彼女に話したわけでもないが、なんどなく悪いことをしたような気分になってしまって、私は照れくさくなって頭を掻いた。 「こちらこそ、私は東浜と言います。よろしくお願いします」 「あの、これ。普通はお蕎麦なんですけれども」  そう言って西山さんはタッパーに入った何かを差し出した。色つきのフタに隠れて中身ははっきりとはわからないが、煮物のようなものが入っているようだ。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加