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「お兄さん。あの音が聞こえるの?」
「? あ、はい」
突然尋ねられて面食らったが、今聞かれた『あの音』というのは、俺が追いかけてきたあのメロディーのことだろう。そう考えうなずいたら、おばあさんは怪訝そうな顔をした。
あらまあとかおやまあとか、そんなことを口の中でぼそぼそとつぶやいた後、じっと俺を見つめてくる。
「あの、何か…?」
「こんなにお若いのに、聞こえちゃう人もいるのねぇ。でも、お兄さんは本当にお若いから、来ない方がいいわよ」
そう言われてもまるで意味が判らない。
俺の無言の反応をどうとったのか、おばあさんはにこりと笑った。またゆっくりと乳母車を押して歩き出す。その人が、角を曲がる寸前にもう一度足を止め、俺の方を振り返った。
「もっともっと…今のアタシくらいの年になるまでは、こっちへは来ちゃあダメよ」
その一言を残し、おはばあさんの姿が曲がり角の向こうに消える。その先からは、あのメロディーが響き続けている。
この角を曲がれば、やっとあの曲を何屋が流しているのかを知ることができる。おばあさんに今の言葉の意味も聞ける。
そう思うのに、忠告の言葉が足を止め、俺は、あの曲が聞こえなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
* * *
それから二、三日後に、地方紙の片隅で見つけた記事。
九十をとうに過ぎた、聞いたこともない名前の老婦人の訃報。
普段は気にすることもない訃報欄のその記事に目がいったのは、いったいどうしてなのか。訃報の内容を読んだ直後、あの時のおばあさんを思い出したのは何故なのか。
答えを知る暇もなく、慌ただしく日々は過ぎていく。
そういえば、この時以来、あのメロディーを聞くことはなくなったけれど、結局あれは何だったのだろう。
その疑問が甦るたび、俺はあのおばあさんを思い出す。そして、優しい笑顔の忠告に従い、角を曲がらずにいてよかったと、心からそう思う。
不思議なメロディー完
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