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僕は軽く会釈して、すーっと、視線を下に下ろす。彼女は両手に何か持っていた。
「あのこれ! 引っ越しそばです!」
ツヤツヤに輝く麺。ご丁寧にざるの上に盛られている。
細く長い麺は、細く長くお世話になりますという意味だったり、おそばに末長くといった意味を込めているらしい。
その習慣を知ってはいたが、正直、今もなおそんなことをやる人がいるとは思わなかった。
「ありがとう……」
彼女は左手と右手に1人前ずつ、つまり2人前のそばを持っていた。何で2人前?
「ご一緒してもよろしいですか!」
「え……」
突拍子もなく、彼女はそれがさも当然なことであるかのようにそう言った。
「そば……お嫌いですか?」
「いや、好きですが……」
田舎の感覚が抜けていないのではないだろうか。いきなりそばを持って隣の家に来るだけでも時代遅れなのに、よりにもよって一緒に食べたいから家に上げてくれと言う。田舎娘というより非常識というか……。しかも男の家だ。髪はボサボサで服はダルダル、生活感皆無の。……貞操観念とか大丈夫なのかな。
ただ、その眼鏡の奥のくりくりとした瞳に見つめられるとどうにも断りにくい。昼前でお腹も空いている。彼女の申し出に僕はただ頷くしかなかった。
「お邪魔します!」
彼女はにっこりと笑うと、靴を脱いで僕の部屋へと上がる。
「台所、お借りしてもいいですか」
「どうぞ……」
神楽坂さんはしげしげと台所を見回している。あまり気分のいいものではない。僕の部屋に興味津々といった感じだ。
「あの……」
「坂井さんは料理はされないんですか」
「ああ、うん……しないね」
お陰で台所は油汚れひとつない。
神楽坂さんはそばを取る皿でも探しているのか、台所を勝手に物色しながら、砂糖や料理酒の入れ物をしげしげと眺めている。あれかな……私がご飯を作ってあげます、的なラノベ展開になるんだろうか。
神楽坂さんは確かにかわいいし気立ても良さそうだ。こうして引っ越しそばの力でお近付きになれたし、引っ越しの騒音も我慢してみるもんだ……なんて思っていると、箸やら器やらを持って僕のいるリビングへと神楽坂さんが現れる。
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