一日目

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伝う汗を腕で振り払い、身体の求めるまま繰り返し酸素を肺へ送り込む。 大口を開け、肩を大きく上下する様は見るからに滑稽だろうが、周囲にいるのはせいぜい忙しく夏を叫ぶ蝉達ぐらいのものだ。 見つけた木陰に倒れるように転がれば、強くなった草の匂い。 懐かしい過去の記憶に思いを馳せながらそっと目を閉じ、雑多に生えた芝のふかりとした感触に身を預ける。 季節の風物詩でもある彼らは、夏も終わりに近づいているというのに衰える気配はない。 かなりの数がいるのだろう。鼓膜に届く大合唱は、不思議と煩わしくはなかった。 「……すっげー声」 ポツリと零した呟きは、誰に向けたものでもない。 ここには俺一人きりだ。 その、筈だった。 「"蝉時雨"って、言うんだよ」 「え?」 はっきりと拾った涼し気な声。 驚きにパチリと目を開けば、声と同じく涼し気な面持ちの男が一人。 青空と揺れる枝葉を背に、微笑みながら見下ろしていた。 これが、"彼"との出会いである。 田舎に住む婆ちゃんの家へ、少し遅い帰省をするのが毎年の恒例行事だ。 今年も車で運ばれること数時間。やってきたこの地は幼い時から幾分も変わらず、閉ざした山々が視界を遮る。 正直な所、来たいか来たくないかと言われれば後者の方が強かった。 商業施設やコンビニなんてもっての他、居間のテレビは親父が占領しているし、頼りの綱の携帯様も微弱な電波じゃ役に立たない。 暇を持て余した俺が出来る事といえば、せいぜい迫り来る蚊と闘いながら扇風機をお供に畳に転がるくらいだ。 堕落した生活を好まない性質ではないが、流石にこの状況が四日間も続くとなれば遠慮もしたくなるだろう。 うつらうつらと惰眠を貪る内に、少しずつ傾き始めた夏の太陽。 ここ一年の些細な変化を報告しあう家族に一声かけると、重い身体を伸ばしつつサンダルを引っ掛ける。 このままでは夕食も入らないし、本来あるべき時間に眠れなそうだ。 なんせ此処での夜は早い。 少し身体を動かすか、と稲穂の揺れる田んぼの間を宛もなくブラブラと進む。 側溝に溜まる水の上で波紋を作るアメンボ。そういえば最近、自宅付近ではすっかり見かけなくなっている。 いないのか、見つけられないのか。どちらにせよ、住みやすい所に密集するのは人間と同じなのかもしれない。
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