三日目

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俺の表情にピクリと反応すると、その人はいつものリュックから手早く水筒を取り出し、コップに並々と注いで手渡してくる。 「沢山あるから、好きなだけ飲んで」 「……」 機嫌を取ろうとしているのだろう。 たかが水で、とも思ったが、ここは折れてあげようじゃないか。 だって、今日は。 「……このモデルは何処にいるんですか?」 この人が描く絵には、必ず対象物がある。 暗くなる思考に蓋をして受け取ると、ソワソワと見つめるその人へ問いかけた。 機嫌を直したと判断したのだろう。 その人は嬉しそうにヘラリと笑むと、斜め前の木を指差す。 「ほら、あそこ」 追った先には一匹の蝉。 時折カナカナと声を震わせては、一息つくように黙る。 「オス、ですね」 「覚えてたね」 悪戯っぽく流した視線で俺を捉えると、茶化すように口端を上げてクロッキー帳へと向き直る。 ……あ、ぶな。 細められた瞳に一瞬息を詰めた事は、気づかれずに済んだようだ。 よかった、と安堵しつつ聞こえた紙の擦れる音に視線を落とせば、鉛筆を握りしめた手が忙しなく黒を刻んでいく。 膝を抱え、チラリとその人の横顔を盗み見る。 真剣な眼差しに、キツく結ばれた口元。 ……あれ? 楽しんでいるように見えた昨日とは違い、その表情は固い。 必死とも取れる表情に俺は黙って、ただ、その人の生み出す黒を見守り続ける。 「……もう少し」 小さく零れた焦りを含んだ声が、一際大きな鳴き声と重なる。 何をそんなに急いでいるのだろう。 頭の中で可能性をはじき出し、はたと一つの理由を導き出す。 相手は羽を持つ生物だ。この絵が完成する前に、何処かへ飛び立つ可能性も十分にある。 中途半端になるのは不本意だろう。 勿論、それは俺もだ。
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