三日目

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言葉を発せずにいる俺の髪をその人は一度しっかりと撫で、そっと指先が離れていく。 出来た隙間に入り込んだそよ風によって、消え去っていく頭上の熱。 まるでいつかのお伽話で見た、魔法の溶ける瞬間のようだと。 「……キミと出会って、描きたいと思えるものが増えたよ」 どこまでも優しい声で微笑んで、その人はゆっくりとクロッキー帳を拾い上げる。 俺に見えるように膝の上で広げて、一枚ずつ捲られる白。 先日と同じく繊細な風景画が現れては消え、少しだけ形を変えて、また現れる。 「ずっとね、ここからの景色ばっかり描いていたんだ。残したいと思えるものが、それしかなかったから」 そう、だったのか。 淡々と告げられた理由は、思いもよらない真実。 確かに現れる線画は言葉の通り、どの景色もここからの羨望ばかり。 あの時は、全く気が付かなかった。 ただ、この絵の魅力ばかりに気を取られていたから。 「でもね。キミがここに現れてから、色んなものが特別に思えて」 連なる風景画の中に、突如現れた水筒の絵。 見覚えのあるデザインに、いつもその人が持ち歩いているモノだと一瞬で理解する。 そして、次のページには、丸い窪みの出来た芝。 それが今まさに自分の座る"ここ"なのだと。 ……ああ、そうか。 この絵は、俺と会った最初の日に描かれたものだろう。 次のページに出てきた見覚えのあるゼリーの絵に、予想は確信へと変わる。 「次の日を待つのが、本当に楽しみになったんだ」 パタリ、とクロッキー帳を閉じた彼は、視線を逸らして遠くを見つめる。 訪れた間に、俺はなんとなく彼の言葉の"気配"を悟って。 彼が、"言いたくない"と。 そう思ってくれていたらいいのに、なんて。
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