一日目

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それでもちゃんと届いたようで、その人は少しだけ瞳を彷徨わせてから曖昧な表情を浮かべる。 「そんな所かな。夏の間だけ、ね」 避暑にでも来ているんだろうか。 社会人ともなれば色々な事情があるのだろう、と一人納得しつつ大人しくなった俺の横。 カサリと小さく揺れた音に視線を流すと、その人の荷物の横に倒れた一冊の本が目に入る。 随分と大きな本だな、と手にしたその表紙には簡単な英字。 ……クロッキー帳? 「絵、描かれるんですか?」 本音の所は"まだこんなスペックを隠し持っていたのか"だが、綺麗に隠して笑顔を作る。 水とタオルを恵んで貰った恩を、悪態では返せない。 立ち上がって表紙を軽く払い、その人の元へ。 「あ、倒れちゃった? ごめんね」 ありがとう、と受け取ったその人は俺にも見えるよう手元の高さを落として、ペラペラと淡い色の紙を捲っていく。 最初の一枚目から始まり、次々と変わるページには用紙いっぱいの風景画。 鉛筆で描かれたそれは白と黒の世界だが、緻密な描き込みにその情景が鮮やかに目に浮かぶ。 「画家、とかですか?」 常人離れした技量。 目を丸くしながら見上げると、その人はクスリと笑んで、いや、と緩く首を振る。 「単なる下手の横好きだよ」 「下手? まさか、冗談ですよね?」 一体何を言っているんだ。 この人の周りは、コレを"下手"だと囃し立てるのだろうか。 だとしたらとんでもない節穴だと、見ず知らずの取り巻きへ沸々と怒りが込み上げる。 「俺、絵とか全然詳しくないですけど、それでもこの絵が上手い部類だって事くらいはわかります」 どうして俺がこんなに熱くなるのか、自分でも理解が出来なかった。 それでも、止まらなかった。 「こんなに綺麗なのに、下手だなんて言わないでください」 「……ありがとう。そう言って貰えると嬉しいよ」 きっと、お世辞だと思っているのだろう。 詰め寄るように見上げたその人からは、変わらず謙遜を含んだ言葉しか出てこない。 そうじゃ、ないのに。 何とか届いて欲しいものだが、残念ながらこの人を納得させるだけの説得力を俺は持ち合わせていない。 もどかしい。素直な感情を伝える事が、こんなに難しい事だとは。 胸中に広がったもどかしさに、グッと拳を握りしめる。
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