一日目

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「……人に見せたのは、初めてなんだ」 「え?」 言い聞かせるような穏やかな声。 再びページを捲り始めた長い指先は、先程よりもゆっくりと。 「同じ場所でも、その日によって見え方って違うでしょ? 残しておきたくって、描くようになったんだけど」 辿り着いた白紙のページ。 子猫を撫でるように、ゆるりと掌を這わせて。 「……本当に、只の記録だったから。ただ描ければそれで良かったけど」 パタリ、と閉じられた表紙。 沈みゆく夕日によって生み出された濃いオレンジが、その人の髪を、目を、肌を染める。 「こうやって、誰かに気持ちを貰うのって、嬉しいね」 ザワリと大きく駆け抜けた風と、揺れる木々。 見守っていた蝉の鳴き声が、一層強く鼓膜に響く。 夕暮れ時の、時雨。 「っ」 無意識に詰めた息。 オレンジ色の世界に、飲み込まれる感覚。 「あの!」 この時の俺は、感情の赴くまま手を伸ばしてしまっていて。 もっと、この人を知ってみたい。ただ、それだけだった。 「明日も、ココにいますか?」 口をついて出た問いにその人は数秒目を見張り、それからフッと優しく緩めて、しっかりと頷く。 「うん、いるよ」 嬉しそうな表情。それが妙に嬉しくて。 「来ても、いいですか?」 「勿論。待ってる」 笑顔での快諾にポワポワと心が暖かくなる。 今思えばあの感情は、"許された喜び"だったのだと。 そしてこの時あの人が何を思っていたのかは、未だに俺には分からない。 「そろそろ日が暮れるね。暗くなる前に帰らないと」 紫がかってきた空には、間もなく訪れる夜の気配。 街頭の少ないこの辺りでは日が落ちきる前に家に着くのが鉄則だ。 「ココ、降りていくんでしょ? 転ばないように気をつけてね」 道はなかった筈だから、とクスクス零すその人に、急に羞恥が襲ってくる。 子供っぽいと思ったのだろう。 コレといった目的もなく、伸びた草が覆い茂った傾斜を無理やり突き進んでくるなど、あと数年で成人を迎える男がやるような事ではない。 たまたま、なんです。 喉元まで込み上げた弁解は飲み込んで、頷くだけが今の精一杯。 言ってしまったら、明日の予定が取り消されてしまうような気がして。 だって明日は"たまたま"ではなく、"意図的に"登ってくるのだから。
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