レモンライム・アンド・ビターズ(あるいは、市井くんとわたし)

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「何てったって、長年セリさんのために美味しいコーヒーを淹れようと頑張ってきたんですからね」 「あたしだって長年、自分のためにずっとコーヒー淹れてきたけど」 「そんなん一緒になりません。愛が違います」 そんなんって。わたしの数年間の孤独な日々を否定したな。あれはあれでそれなりの楽しさがあったんだってば。 「はい、どうぞ。セリさん」 野上がちゃんとソーサーに載せたカップ(業務用)を差し出してくれる。ゆっくり充分に冷まして一口飲む。確かに。 「美味しいです」 「でしょう?」 朝からその自慢げな顔。 わたしはカチリと音を立ててカップをソーサーに戻した。 「ところで野上さぁ、明日の買い取りどっちが行く?久々に翠文堂さんと一緒なんだけど」 「あ、俺行きますよ。どうせ車出した方がいいじゃないですか。午前中だったら二人で行けたけど、午後は店開けたいですもんね。それともセリさん行きたい?」 「いや、特にいいよ。野上に任すわ。…あ、でも、ヘンな本あったら代わってよ。途中でもいいからさ」 「そういう面倒なリクエストは受け付けませんて。ところでセリさん」 野上は自分の分のコーヒーを一口飲むと、おもむろに言った。 「そろそろ、俺のこと『野上』って呼ぶのも…。セリさんだって野上じゃないですか、苗字」 またそういうどうでもいいことを。 「まぁそれ言ったらセリさんも『芹さん』じゃないですけど。だから」 「下の名前では呼び合わないよ」 牽制球を投げると、野上は目に見えてがっくりした。 「何でいつまでも拒否するんですか…。谷崎さんと市井さんはずっとセリさんのこと名前で呼んでるのに、何で俺だけ駄目なんですか~」 「朱音と友明なんか関係ないじゃん」 いっつもそここだわるんだから。 「なんか、親しさとか距離感で負けてるみたいで嫌なんですよ」 だから拗ねてみせても可愛くないから。ヤツの額を軽くピン、と指先で弾く。 「そんなこと考えんなって。距離で言ったらお前が一番近いんじゃん。どんな名前で呼び合ってるかなんて、親しさの度合いと関係ないし。それに」 一瞬躊躇したのち、ちょっと思い切って口にする。 「割と…、好きなんだ、野上に『セリさん』って呼ばれるの」 野上の表情が瞬間でパアアァッと現金なほど晴れ渡るのを見て、やっぱり余計なこと言ったと後悔。
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