§ 第1章  飛鳥川の淵瀬 §

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真也は一太の嬉しそうな顔を見て少し和んだ。 「一太。大きくなったな」彼は墓石へ手を合わせ秀美に囁いた。 秀美は花を包んであった包装紙をそっと拾って小さく折り畳むと、そのまま俯いたが一太は真也の真似をして一緒に手を合わせ墓石にお辞儀をした。そして彼の手を引っ張ると、 「ねえ、おじさん。遊ぼうよ」って、無邪気に笑った。一太は大人の気持ちを全然知らずに真也の手を引っ張り続けた。 「ねえ。おじさん。おじさんのこと、『おとうさん』って、呼んでもいい?」夫を亡くして一年経つものの、決して忘れたわけではない。秀美は青ざめた。 「だめよ、一太。だめっ!」秀美は咄嗟に強く叱った。その声に一太は酷く驚いてピタッと動作を止めた。彼の口はへの字になり今にも泣き出しそうだったが、真也はひやりとした雰囲気を穏やか変えた。 「一太。遊ぼうか。この先に広い公園があったな」 真也はそう言って優しく一太の頭を撫でた。一太は「うん」と頷いて今鳴いたカラスがもう笑っていた。それから一太の手を引いて歩き始めた。 一太の機嫌はすっかり良くなり、「おじさんの手、大きいね」って、満面の笑みを浮かべ母のことをすっかり忘れていた。そんな一太であるが彼は人見知りの激しい子だったから、なかなか母親の傍を離れなかった。それなのにどうして真也さんに付いていったのか、秀美は困惑した。 「一太、待って……」秀美は切ない思いで二人の姿を追い掛けたが、彼女の瞳に涙が浮かび前の景色がぼやけた。秀美のほっそりした白い指が頬に触れた。 人影の少ない公園は予想以上にがらんとしていた。時々公園を通り道にする人がいたけれど、人々の目の保養に桜の花が華やかに咲いて、その存在を見事に表現していた。 夫を亡くしてからというもの、心に余裕がなく風景すら楽しめなかった秀美に、柔らかな風が桜の花びらを載せてまるで快い調べを奏でるように美しく揺れた。散る花びらは雪のように歌った。そんな麗しさが過去の思い出を誘ったのか、秀美の頬に涙が伝った。
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