§ 第1章  飛鳥川の淵瀬 §

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「おじさん。こっちだよ」一太の楽し気な声が近くで聞こえた。 不意に一太は走るのを止めて両手で顔を覆った母に、 「お母さん。どうしたの? 悲しいの?」と、尋ねた。彼は母のスカートの裾をギュッと掴んだ。 「一太。こっちへおいで」真也は一太を誘い体を屈めて抱き締めた。しかしながら一太はしくしく泣き出した。 真也はどれだけ秀美を心配し愛おしく思っていたか。秀美を心から強く抱き締め守りたかった。彼は一太を抱きながら呟いた。 「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを」藤原実方朝臣の歌(あなたをこれほどまでに想い、好きだと言うのに言えない。私のこの想いが伊吹山のさしも草のように燃えているのを、あなたは知らないのだから)「恋ぞつもりて」文芸社  一度諦めたはずの真也の切ない想いだった。 秀美はしゃがむと一太の涙をハンカチで拭って、「帰ろうか」と、囁いた。すると一太は、「おじさんも一緒だよ」って、泣きながら秀美を困らせた。 「そうね、一緒に帰ろうか」秀美が返事をすると一太はすぐ笑顔になった。幼い瞳は父のような光景で真也を眺めた。そして母の手を握った。それから一太を挟んで三人で歩き始めたけれど、美しく咲く桜の花は春の贈り物と一緒に、彼らへ豊かな「愛」を贈っていた。
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