§ 第1章  飛鳥川の淵瀬 §

8/27
前へ
/112ページ
次へ
                  ここで この春、秀美は中学から高校生まで住んでいた実家の別荘へ引越した。そこに夫の思い出が沢山あったけれど、秀美は自分を変えるためにアパートを出たかった。それだけではない。毎日別荘の弓道場で矢を放ち練習を重ねた青春時代のように、秀美は輝いていた自分をもう一度取り戻したいと強く思ったのである。それからもう一つ。秀美は仕事を始めようと決心した。家事と育児に専念していた彼女は、三月から一太を保育園へ預けて求職活動をした。 四月一日。この日から秀美は仕事を開始し、何もかも順調に熟そうと毎日意気込んでいた。忙しいリズムに少し慣れたある日、 「ハンカチを落としましたよ」 誰かに声を掛けられた。秀美が振り向くと男性の手に薄桃色のハンカチがあった。 「ありがとうございます」と、少し微笑んで御礼を言った。 今は会社の昼休みで、食堂で昼食を済ませようと秀美は列に並んでいた。いつもはお弁当を持参していたのだけれど、この日は朝寝坊をしてお弁当を作れなかった。 「へえ。意外と可愛い人だな」声を掛けた男性が呟いた。 「お前知らないのか? 四月から隣の課に入社した人だ。噂だと未亡人らしいが」 「未亡人?」 「そうだ。彼女は仕事の出来る人らしい。おい、顔がにやけている。さては未亡人にしておくには惜しい人だと思っただろう?」 「そりゃ思うだろう。そう言うお前こそ彼女を色眼鏡で見ていたぜ」 秀美は事務所内でちょっとした噂の人になっていた。けれど当の本人は何のことやらまるで関心がない。そんな鈍感さは学生時代からとんと変わっていなかった。 秀美は和の定食を選んで盆に乗せると広い食堂を見渡した。どこを見ても知らない人ばかり。秀美は少し孤独になったけれど所々空席のある奥側へ座った。そして一人で、「いただきます」と、夕食のメニューを考えながら食べ始めた。ところが短時間のうちにどんどん席がうまり、静かな場所を選んだはずが様々な会話で賑わった。そんな時、 「ねえ。君さ。何考えてんの?」誰かが誰かに問いかけた。しかしながら返事がない。
/112ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加