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「心配しないでも、あたしたちはずっと、上司と部下ですよ」
目の下をハンカチで抑えて、どんどん溢れてくる涙をなんとか堰き止める。鼻が詰まって声も変。でも、藤次郎は笑わないで聞いてくれる。
「元ご近所さんで、ちょっとした幼馴染で、兄妹みたいなものです、ずーっと」
見当違いの返答をしているのはわかっている。けれど、これは藤次郎に言っているんじゃなくて、あたし自身に言い聞かせているもの。
「次長は、今ちょっと気が動転してるだけですよ。今までずっと近くにいたはずのあたしが、急に彼氏なんてつくるもんだから…ちょっと…面白くないって思ってるだけですよ」
「そう…かな」
「はい、そうです」
「じゃあ、いずれ慣れるかな」
「はい、慣れますよ」
あたしがいない日常に。あなたがいない日常に。お互い、ちゃんと慣れていかなくちゃ。
「じゃあ、これで失礼しますね。実は、まだ先週の遅れが取り戻せてなくて。あ、あと来月の名古屋出張、ホテルがほとんど満室なんですよー。ちょっと予算オーバーしてもいいですか?課長に相談してみるんで、棄却しないでくださいねー」
あと、少し。この部屋を出れば、遠慮しないでいい。
「間宮次長、」
あと、少し。
「幸せになってください」
あと、少し。
「心から願ってます」
静かな部屋に、ドアの開く音が響く。怖くて、後ろを振り返れなかった。
どんな顔してるかな。せいせいしてるかな。これできれいに眞由美さんと結婚できるって安心してるかな。
そうだと、いいな。
震える手で携帯を取り出す。最近もらったメールを探して、すぐに返信画面を開く。
彼女は、すぐに駆けつけてくれた。予想していたのか、持ってきたタオルを頭からかぶせてくれた。
非常階段で座り込むあたしの隣で、ずっと背中をさすってくれた。
「幸せになってくれたら、いいね」
「…う…ん…っ」
そうだと、いいな。そうだと…
「本当は、嫌なくせに」
そうだね。
やっぱり、嫌だな。
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