第1章

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「これ、そこの娘」 ささやかな好奇心を覚え呼び掛けると、娘は一端手を止め振り返った。だが私の姿を見るなりなぜか恥じらうようにぱっと顔を背けてしまう。 「娘。聞こえているのだろう」 活溌そうな見た目に反して内気なのか、それとも礼儀を知らないのか、娘は私が何度呼びかけてもこちらに向かない。 「顔を見せぬか。………私は長くこの御花長屋に住む者で、青蓮という」 私が名乗ると、娘はおずおずとようやく顔を上げた。 「……ここに住んでる人、いたんだ」 目が合うとなぜか娘は呆けたように私の顔を見つめ、それから顔を赤らめるとまた明後日の方向に顔を背けてしまう。 「娘。おまえはここがどのような場所であるのか知っているのか。悪いことは言わぬから、早々に立ち去るがよい」 私がそう言い放った途端、私の部屋から顔を覗かせた弟子がなにやら恨みがましい目で見てくる。折角の上物をみすみす逃すなど、あの食い意地の張った弟子には承服しかねることなのだろう。 私は袂に入れておいた饅頭を半分に千切ると、廊下の窓へ放り投げた。 すると上階から駆け下りてきた弟子はとうとう犬の姿になって喜び勇んで窓枠を越え外に飛び出して行った。 娘はその様子を目を見開いて見ていた。だがさほど驚いた様子はない。 「人の身でありながらこんな場所に迷い込むとは、やはりおまえは並々ならぬ霊感が備わっているのだな。………今のが見えたのだろう?」 娘は素直にこくりと頷く。 「ここは人が来るべき場所でも、ましてや住む場所でもない。早く人の世界に帰るがよい」 折角の忠告だというのに、娘は私から目を逸らしたまま不服そうに唇を噛みしめる。いかにも意固地な表情である。 が、それが心の幼さ故の態度だと見て取れるから不思議と不快は覚えない。鳥の雛に嘴で突かれても痛くなく、ただこそばゆいだけであるのと似た感覚と言える。 「若い娘ならこんな場所を選ばずとも他に行くあてなどいくらでもあるだろう。物の怪に食われたくなくば日が暮れる前にここを出て行くことだ」 ずっと伏せていた娘の目が、私の言葉に反発するように跳ね上がった。 正面からぶつかると、その曇りのない目のなんとうつくしいこと。うっかりとこの場で食らってやりたくなるほどである。
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