第1章 桜

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誘う声がする。 誰を呼んでいるのか。 高く、低く。一定のリズムで心に染みこんでくる。 不快ではない。 むしろ心地いい声に、精神が落ち着いてゆく。 疲れきった心は安らぎを求め、その音にゆっくりと調子を合わせる。 コップに水が満たされるように、潮が満ちていくように、乾いた大地に雨水が浸透するように。 胸に拡がる清々しい音。 リズムは変わらない。 凛とした響き。 (どこかで聞いた?) 少女は思った。 (どこで?) 誘う声……。 違う。逆だ。 抑える声。 ─────まだ駄目だ。時が満ちていない。      いま一度、眠りにつきなさい。      時期が来たら、自然に目覚める。      無理に起きてはいけないよ。      もう少し……安らかな眠りを。 「あなたは誰?」 誰何した少女の周囲には誰もいない。 無限の空間の中で桂月は知らず尋ねていた。 ────きっと近いうちに会えるから、心配せずに眠りなさい。 「また……会える…………」 温かい空気に包まれる。 声は消え失せた。 羊水に漂う胎児のように身体を丸めて微睡んでいる桂月。 (ここは温かい。おやすみ……なさい……)
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