第1章 桜

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太陽光が乏しいのか、昼過ぎの春の日差しの明るさじゃないくらい視界が暗い。 正門を入るまでは普通の明るさだったはず。 桂月は人影がなくなった高等部に戻り、桜並木を今朝と同じように眺めていた。時折、螺旋を描くように吹き上げる風が、散る花びらを連れ去るかのように舞い上げている。 「なぜ、私を見てるの?」 静かに問いかけても返事はない。 桂月は立ち並ぶ桜を見比べ、その中で一番幹の太い、まるで長老か主かのように鎮座している樹の前まで歩み寄った。 ゆっくりと腕を伸ばしてゴツゴツとした幹に触れてみる。 視線は、存在感のある花をつけた枝の方に向けたまま。 「何か伝えたい事があるから、見てるんでしょ?」 もう一度問うてみるが、やはり何も返ってこなかった。 「………………」 少しずつ、こんなことをしている自分が馬鹿らしく思えてきた。 相手は樹だ。 仮にこの桜が何らかの意志を持っていたとしても、彼女に伝えたい事があるとしても、彼女自身にはそれを受け取れる手立てがない。 直感で行動するタイプだから、知識など無くても何とかなると思っていたのが間違いだ。 今回のことは分が悪すぎる。 自分を見ている感覚はキャッチ出来ても意図が図れないのならどうにも動けない。 諦めて家に帰ろうと幹から手を離し、踵を返した瞬間にものすごい突風が桂月の体を包み込んだ。 グルグルと螺旋状に下から吹き上げる風は桜の花びらを吹雪にして彼女の視界を奪う。 堪えきれず目を伏せたとき、耳に微かな……しかしよく通る低すぎず、高すぎない『音』が届いてきた。 「…………何? この音は……」 周波数が合わないのか、聞こえるのは『音』だけなのだが、どうにも『音』じゃない気がする。 リズムのある音色に桂月は聴力を研ぎ澄ませ、『音』に含まれている何かを掴みとろうと全身を緊張させた。 だが、努力もむなしく潮が引くように次第に遠ざかっていく『音』はまるで桂月をからかっているようだ。 いつの間にか風は止み、『音』も聞こえなくなると何事もなかったような日常の風景が視界にも耳にも拡がる。 同時に正気を取り戻した桂月は夢から覚めたような、呆けた顔をして先程まで触れていたはずの桜の太い幹を見つめた。 「あなた……?」 風と音の正体は、沈黙を守っている目の前の桜の樹なのか。 尋ねてみても結果は同じ。
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