第1章 桜

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さっきまでの風と音の正体は目の前に在る樹だと、思った桂月。 しばらく見つめていた幹から目を離したのは、日が落ちて、周囲が暗くなってきたからだ。山裾にはわずかに夕日が覗いている程度。 薄暗い空とは対照的に、満開の桜がほのかな明かりを放ち始めた。 昼と夜とでは全く違う桜。 妖しい輝きに不気味なものを感じ、不安が胸をよぎる。 漠然としたものが確実に波紋を広げていく。 ─────夜の桜には魔力が在る。むやみに近づかないように。 幼い頃からこの時期になるといつも聞かされていた。 今頃になってやっと言葉の持つ真意に気づく。 確かに力がありそうな妖しい姿だ。 捕まってはならない。 でも引き込まれずにはいられない、逆らえない何かが桜にはある。 闇夜に浮かぶ桜が、漆黒に溶け込んでしまわないように……それは人間たちに対する警告なのかもしれない。 自らの存在を妖しく見せることで。 近づくな、と───── それは、孤独の証……。 1人では寂しい。誰かにそばに居て欲しい。 でもそれは許されざること、叶わぬ願いだ、と。 闇に染まることのない桜は高貴な雰囲気を漂わせている。 桜として生命を吹き込まれた事によって、叶えられない永遠の夢を持つ夜の顔と、少しでも近づきたいがために見せる華やかな昼の顔。 反する2面をを持った桜にいつの世も人間は惹きつけられずにはいられなかった。これまでも、そしてこれからも変わらないだろう。 緑を育んでいる地球が消える、その瞬間まで。 桂月は桜から一歩後ずさった。 すでに人影はない。 それほど長い時間ここにいたわけではないはずだが。 校外を走る車の音さえものすごく遠い。 後者の正面玄関の高い位置にあるアナログ時計はライトが消えていて確認できない。 まばらに設置された水銀灯がかろうじて現世界に自分をつなぎとめている唯一の存在に思えてくる。 じりじりとできる限り静かに桜から離れようとする。 少しでも音を立てれば牙を向けられそうな、そんな予感が桂月にはした。 一斉に林立する桜が襲ってきそうな、異様な空気に取り乱さぬよう、しかし確実に正門までの距離を縮め、一気に駈け出した。 何も起こらないで欲しい。事態が変わるなら何か起こって欲しい。 恐怖と好奇心で心がふらふらと揺れる。 自分の疑問に答えが出るのなら、と。
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