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雨に濡れた雑草が足に絡みつく。
冷たい空気で冷えた肌が濡れて、ますます体温を奪われていった。指の感覚は傘を掴むだけにまで失っている。肌は段々と青白くなり、まるで生気を失っているようだった。
背筋が寒気を感じて震える。部屋に着いたら、まずはお風呂に入らなくては風邪をひいてしまいそうだ。ぎゅっと歯を噛みしめて寒さをやり過ごし、突き当りまでやっとたどり着いた時だ。
着物を纏う女を目にして嫌な気配を感じた。
何か、訳ありであろうとは思った。だが、それ以上に女には関わってはいけないと本能的に察知する。どうしてそんな風に思ったのか、なぜこんな日に雨に打たれているのか。色んな事が頭の中を駆け巡っていく。
見えないふりをして早々に前を通りぬけたとき、足が急に重たくなってしまった。そして、どこからともなく聞こえる呼び声に自分の意志ではなく、何者かによる強制的な圧力による反応を返してしまう。
「なに…?」
だめだと頭の中では分かっていながら、辺りを見回す。分かっている、気が付いているのだ。
あの女に呼ばれた。
金縛りにあったように動かない足。止むことを知らない雨。全身を撫でていく冷たい風。何もかもが時を無くしたまま、その女の動きを待っていた。
震えが、焦りが止まらない。早く逃げなくてはいけないことは十分知っているのに体が竦む。もう無理だ、そう思った瞬間だ。
『私の、唄を、返して』
女の声が頭に響くのと、冷たい肌が頬に触れる。それと同時に全力で私は走っていた。傘を放り捨ててなりふり構わず、草の葉先で足が切れようと刺すほどに冷たい大粒の雨に叩かれようと本能のままに女から逃げる。振り向いてはいけない。だって、女が近づいてくるのが体で分かるから。
あの女の周りは空気が重たい。体が鉛のように動かなくなってしまう。咄嗟とはいえ、肌が触れてしまうほどに近づいたあの時に逃げ出せたのが奇跡のように思えた。
アパートは目の前まで迫っている。普段の運動不足を恨めしく思う暇もなく、無我夢中で逃げていく。二階までの階段を駆け上がり、一番奥の部屋まで走って向かう。震える手で握りしめた鍵を差し込んで中に入るまでは永遠の時間と思うほどもどかしいものだった。内側から鍵と、ストッパーをかけてドアにもたれかかると静かな空気を伝って階段を昇ってくる音が聞こえた。恐らくはあの女だろう。足音はゆっくりと近づいてくる。
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