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見えた手は一本だったのに、無数の拳が俺を殴りつけてくる。いいや、殴るだけじゃない。腕や足を掴んだり脇腹を引っ掻いたり、髪を引っ張ったり、ついには首を絞めようとまで……。
精一杯の抵抗で前へ前へと這って逃げる俺の目の前に、垂らしておいたナースコールが見えた。
これを押せば助けが来る。そう思い伸ばした手を、脳裏をよぎった言葉が止める。
静かになったらすぐにナースコールを押して下さい。
あの男はそう言っていた。
こんなに酷い目に遭っているのに、俺の口からは、不思議と悲鳴の一つも溢れない。病室には不気味なまでの静けさが満ちている。
静かになったらナースコールを押せ。それは、俺がベッドの下で息を潜め、身じろぐこともしなくなったら、という意味ではないのか?
だとしたら、これを押した時、俺を待っているのは今以上の酷い状況なのではないだろうか。
一瞬で駆け巡った考えに従い、俺はナースコールに伸ばした手を引っ込めた。それをぐっと床に押しつけ、死に物狂いでベッドの外へと這い出る。
その途端、さっきまでの猛攻が嘘のように収まった。
助かったとはまだ思えないが、攻撃をされなくなった事実に安堵が生まれる。それが張りつめていた俺の意識の糸を切った。
* * *
気づいた時、世界は朝になっていた。
看護士の叫びが側で聞こえる。それで俺は、ようやく心から助かったと思うことができた。
すぐに診察室に運ばれ、夜中に負った傷の治療を受ける。その際に、担当医と看護師達が全員息を飲んで固まった。
俺の体についた無数の傷跡。拳の形の痣や引っ掻き傷、強く握りしめた指の形などなど。
不思議なことにそられは大きさがバラバラで、どう見ても一人ではなく、大勢の人間が寄ってたかって暴力をふるったとしか思えない状態だった。
医者に事情を聞かれ、昨日退院した男に告げられた言葉と、看護士に言い渡された場所移動のことをそっくりそのまま話すと、一同はさらに沈黙して固まった。
聞けば、昨日退院した患者は一人としておらず、しかも俺が最初に使っていたベッドの隣には、入院患者はいなかったというのだ。そして、場所移動の指示もなかったらしい。
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