第1章

2/4
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
 もうすぐ三十になる僕には最近気になる女がいる。近所の公園で週末にフルートを吹いている痩せた女だ。  年は二十代前半位だろうか、学生にも見えた。その女は黒い譜面立ての楽譜を見ながら凛と立ってフルートを吹いていた。  抑揚のある演奏と対照的に白い仮面のように無表情で何の色気も感じないその姿を見る度に僕はこの女の冷淡ぶりを勝手に妄想していた。  ある日の午後、女をオフィス街で見かけた。がっちりした体型で髭面に黒縁眼鏡をかけた三十代後半に見える男と腕を組んで歩いていた。  女は微笑んでいた。  ああ、こんな顔をする時があるんだ。なぜか僕は安心した。男の太い腕に絡んでいる女の細い指先は今にも折れそうだった。とてもフルートを力強く演奏している指と同じに見えなかった。  女はあの男の太い腕に抱かれているのだろう。そう思い浮かべるのが当然のように華奢な女は背中の広い男に寄りかかって歩いていた。  この半年間、女は週末になると公園でフルートを吹いていた。雨が降っていれば屋根付きのベンチの下で吹いていた。  僕は雨の降る公園で演奏している女の姿が好きだった。薄い雨もやの立ち込める池の前で吹くその姿は石膏の人形に服を着せたオブジェの様に無機質で、冷たい雨が降る景色に溶け込んでいた。  きっと上手な絵描きなら幻想的な抽象画を描けただろう。そう思える位にその景色に見とれる時があった。  公園で演奏している時の女は全く笑わなかった。演奏に失敗しても照れ笑いもせず、街の中で男に見せた笑顔はなかった。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!