第1章 真夜中のパイドパイパー

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「東京で農業の何が学べるのかは知らないけれど、頑張るのよ」  学ぶ気はありません。 「辛くなったらいつでも戻ってこい! ほら、圭太ンところの息子も今18やからな。結婚相手探してるみてえだからよ!」  それを聞いたら辛くても戻りたくなくなりました。 「東京は怖い人がいっぱいだっていうから、とにかく気を付けるんだよ」  私はあなたたちの方が怖いです――数々の叱咤激励(?)を背に受け、全て心の中で突っ込みを入れ、愛里は故郷の地を後にしたのだった。  それから、4年と半年が経った。  茹だるような夏の暑さも過ぎ去って、台風のニュースも聞かなくなった10月も半ば――。 この時期は服装選びが難しい。コンクリートジャングル――巨大な高層ビルという人工の巨木が乱立する東京は、昼間は暑くても、夜になれば肌寒いビル風が吹き抜けるのだ。  古い校舎はそんなビル風をもろに受け、隙間風を生む。肌寒く、薄暗い夜の研究室。室内で空調も点けていないのに薄汚れたカーテンの裾がかさりと揺れる。  ここは、東央大学農学部、須藤研究室――正式名称は天然物質分析化学研究室。たいそう分かりにくい名前が付けられているが、要は天然に存在する化学物質を分析して科学しようという、やはり何だかよく分からない研究室である。  研究室にはいくつかの実験台が並べられている。その実験台の上にはビーカーや試験管といったガラス器具が収められた棚が乗っている。丁寧に洗われた器具は、ところどころ欠けたり文字がかすんでいるが、長年の使用に耐えたその身を誇らしげに曝しているようでもあった。  一方で、誰かが日中に出しっ放しにした三角フラスコやマイクロピペッターが物言いたげに実験台の上に残されている。  ツン、と鼻をつくのは恐らく誰かが使った酢酸の残り香。カタカタと郷土玩具のように物音を立てているのはビーカー内の液体をかき混ぜる自動攪拌機。時折聞こえる巨人のため息みたいなプシューという音は、窒素ジェネレーターが不要なガスを排出する音。  様々な音がまるで狂想曲のように絡まり合い、静けさとは程遠いが、普段からこの研究室に身を置く者からしたら、間違いなくこれがこの部屋における“静寂”の定義であると言い張るだろう。
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