第1章 真夜中のパイドパイパー

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 くしゅん。たった今、一定のリズムがありそうな音の連なりを突き破り、“静寂”にピリオドが穿たれる。  誰もいないと思われた研究室のデスクでむくりとひとつの物陰が身をもたげる。次いで鼻を啜る音。物陰が動いた拍子にバサバサと英語論文の紙束が床に落ちる。 「おっとっと……」  それを慌てて拾い上げているのが神楽坂愛里22歳であった。 「……寝てた」  化粧などしなくても元々大きくクリクリとした目には欠伸の際に出た涙が浮かんでいる。まばたきで長い睫毛(まつげ)がぱちぱちと揺れる。清楚な見た目。彼女の肌は現在彼女が身に着けている白衣と見間違うほどに白い。身長は160センチほどで痩せ形。 何人かに彼女の見た目の感想を聞いたら、真面目そう、大人しそう、かわいいという答えがトップ3で返ってくることは間違いないだろう。 「いたた……」  腕に顔を押し付けて寝ていたため、黒縁眼鏡が顔に食い込んでいる。顔を手で擦って目を完全に覚まし、愛里は腕時計をちらりと覗き込む。現在時刻9時45分。もちろん午後だ。 「今日はもう帰りますか……」  寒さにぶるりと身を震わせてから彼女はひとり呟いた。  愛里は停滞していた。原因は至極単純だった。  大学院の1年生になった。大学を成績トップで卒業したため、返済不要の奨学金を当てることができた。親の愚痴さえなければ立場的には愛里の望んだ通りになっていた。  実験補助などの細々としたバイトで何とか食い繋いでいくことはできている。何だかんだ言いつつも娘に餓死されてはたまらないのか、実家からは畑で収穫したと思われるコメや野菜、たまに肉類なども送られてきた。  ノーベル賞を取りたい。その思いは変わってはいない。そんなに賞が欲しいなら農学部などではなく医学部や工学部に転部すればいいという人もいた。けれど、愛里は農学分野でも頑張ればノーベル賞を取れることを証明してみたかった。  窮鼠(きゅうそ)猫を噛むというが、自分を自ら窮地に追い込むネズミは果たしてネコを噛めるのか。  案の定、愛里の戦況は芳しくなかった。 (上手くいかない……)  停滞の理由、それは研究が全く進まないから。甘噛み程度にもネコを噛めていない。
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