第1章 真夜中のパイドパイパー

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 理系の学生は、一般的に大学4年生になると研究室に配属となる。大学を卒業後は大学院へとそのまま進学することが多い。その際、大学4年生までの研究を引き続き大学院でも行うのが一般的だ。  愛里のいる東央大学の農学部には全部で30の研究室がある。研究室のメンバーはそれぞれだが、だいたい10人から多くても30人だろう。その中のひとつ、須藤研に愛里は所属し、人様の役に立つような研究をかれこれ1年半行ってきた。そして、その研究を成功させ、論文を修めることが大学院生としての愛里の卒業の条件だ。  しかし、毎日研究室に来て、毎日フラスコを振って、夜遅くまで頑張っているのに、上手くいかない。  努力をすれば、どうにかなるのではなかったのか。  今まで、努力で全ての難局を乗り切ってきた愛里には初めての体験――挫折だった。研究というものには答えがない。もしかしたら正解など存在しないかもしれない問題を解き続けるようなものだ。出口のない迷路。騙し絵の階段みたいに同じところをくるくると登り続けているだけ。授業とテストで勝ち得てきたものが必ずしもここで役に立つとは言えなかった。 (大学の時は何とか卒業させてもらえたけど、このまま成果が出なかったら私は何のためにここに来たの……)  数年前に掲げた戦旗――今やそれは傾き、ノーベル賞、なにそれ美味しいの? 状態であった。  親や親戚の言葉が走馬灯のように思い出される。 『辛くなったらいつでも戻ってこい!』 (お父さん……)  じんわりと胸が熱くなったが。 『ほら、圭太ンところの息子も今18やからな。結婚相手探してるみてえだからよ!』 (ダメ、ゼッタイ……!)  圭太ってアレでしょ。2ケタの掛け算もできないようなアレでしょ。だめだめ、発狂しちゃう。愛里はぶんぶんと頭を振って頭に浮かんだ白い歯を見せて笑う圭太の泥だらけの顔を吹き飛ばす。  そのときだった。 「あっ、神楽坂さん、まだいたんですね」  研究室のデスクで犬のように頭を振っていた愛里に突然声がかけられた。  研究室など自由なものだ。最後のモラトリアムを謳歌するかのように学生が好きな時間にやって来ては帰っていく。たった今、研究室の扉を開け、冷たい隙間風を招き入れた彼もどうやらその口だった。
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