第1章 真夜中のパイドパイパー

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 酢酸とはその名の通り、酸だ。人間の胃の中に含まれている酸といえば塩酸で、それは食事で入ってきたタンパク質、要は肉を溶かす作用を持っている。酢酸はそれよりも弱いものの長時間手に付いたりすれば皮膚を溶かすくらいの力は持っている。  ちなみに“酢”という文字が使われていることから分かると思うが、食酢にも酢酸は使われている。だが、その割合は三から五パーセントとごく微量。ごく微量であの匂いなのだから。颯太の倒した百パーセントの“酢”がいかに強烈な臭気を放っているかは推して知るべきだろう。  早く帰っておけばよかった……鼻を塞いでも鼻孔を刺激してくる酢酸の強烈な刺激臭に目を潤ませながら、愛里はガラス片を片付けるための箒とちりとりを持ってきてやるのだった。  成功の秘訣とは何だろうか。昔の彼女ならば、成功を10の項目に分けると、そのうちの6を努力が占め、残りの4はその人の生まれ持った才能とか才覚とかが占めるのだと熱弁しただろう。それは、遺伝子が占める割合を本人の努力の割合の方が上回っている――つまり、努力すればだいたいのことは実現できるということだ。  しかし、今の彼女ならばこう答えるかもしれない。努力3、遺伝子3、運が4、と。  運が良くて成功してきた者をたくさん見てきた。ろくに努力もしていないのに運命の神様の微笑みによってさっさと論文を仕上げ、就活も終え、後は遊んで暮らすだけ、という先輩もいた。  そういった輩が人生を失敗するかというとそうでもない。結局、運がいいというのは要領の良さも意味している。よほどの怠け者でもない限り、それなりに充実した人生を送れるはずだ。それなりの、だが。  だが、今の愛里にはそんなことまで考慮する余裕はなかった。 「私にも幸運が欲しい……」  自分の研究が上手くいかないのは運が悪い。努力量は自分の方が圧倒的に上なのに、成果という面では自分を軽々と越えていく者がたくさんいるのだから、そう考えずにはいられない。  ゆえに愛里は、目の前で酢酸と悪戦苦闘する颯太が苦手だった。彼と関わるとろくなことがない。ただでさえ少ない自分の運気が減っていく。科学者たる者、そういった非科学的なものは信じたくはないのだが、そうでもしなくてはやっていけなかったのだ。
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