第1章 真夜中のパイドパイパー

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 今でもよく覚えている。 「東央大学? そこが日本一の大学だってことは知っているけれど、女の子がそんなところに行ってどうするの」 「そうやで愛ちゃん。あなたどうせ農家の嫁になるのに」  彼女はそういった親族からの言葉を全て聞き流した。これは戦だ。孤軍奮闘、四面楚歌。けれど、負けたくない。  風に揺れる麦畑を憎々しげに眼鏡の奥で見据えながら彼女は考えた。穀倉地帯の贄(にえ)になって堪るか、と。  ある日、妙案が浮かんだ。 「農学部ならいいでしょ。きっと農業のこと、たくさん学べるよ」  嘘をついたのだ。いや、嘘ではないが、農学部は別に農業を専門に扱う学部ではない。蓋を開けてみれば、化学や物理、生物に数学といくばくかの社会科――通常の理系学部と学ぶべきことはそう変わらない。  けれど、彼女の親や親族はそれに屈服したようだった。何分大学のことはよく分からない。“農”学部なのだからきっと農業をやるのだろう。それに、彼女が田舎や家系を疎んでいることは分かっていたし、数年間の自由くらいは与えてやろうという情けもあったのだろう。愛里の大学4年間の学費は何とか確保できた。 (私は農学部を卒業して、いつかノーベル賞を取る! 農家の嫁なんて絶対にいや!)  それが偏った考えであることは承知していた。農家を馬鹿にしているのではない。ここまで何不自由なく愛里が生活できたのもひとえに実家の農家という職業で得たお金のお陰であるし、愛里に限らずこの世のすべての人間が農家の作った食品を食べることで生を繋いでいるのだ。ただ、農家という狭いフィールドで終わりたくはなかったのだ。  幼い頃から研鑽を積んだ彼女の学力は、日本最難関である東央大学の受験問題さえも軽くあしらった。  東日本方面へ向かう電車のホームで愛里を見送りながら、両親や親族は口ぐちに彼女に声をかける。それはまるで、引き留めればまだ間に合う……とでも考えているかのように愛里には思えた。
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