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 彼は急いで気難しい顔を作り直して、蛍から微妙に顔を逸らす。  珈琲の香り。その横に、どうやら新作らしい、蛍の拳程度の小さなパンが3つ、添えてあった。  思わず、少し機嫌を直してそちらを伺ってしまいそうになる。食欲をそそる良い匂いだ。 「コーンとチーズのお総菜パン、試しに焼いてみたんですけど。お気に召すか、味見……していただけマス?」  中にツナが入ってます、と、言いながら、相も変わらず紙物で占領されている彼の机の上を汚さぬように、気を使いつ、蛍がそれらをテーブルに置く。  彼は興味はないけれど、蛍がそういうなら、という風にちらりとだけそちらに目を向けて、でも、先に珈琲の方へ手を伸ばす。  淹れたてを少しだけ置いて。 彼がすぐに口をつけても大丈夫なように考えている。  蛍の気遣いを知っているから、彼は安心してそれに唇を寄せる。……内側からほだされるように、鼻孔をふさぐ珈琲の香りに安らいでいる。  そのまま自然な動きで蛍に目を向けると、彼の勘気がほどけることを期待しているのか、蛍は丸い盆を細い腕でギュッと交差させるようにして抱いて、上目遣いに彼を見守っている。  ……彼女が悪い訳ではないのだ。 判っているが、良い対処法がまだ、浮かばない。  早雲は蛍の伯父ではあるが、直接は蛍とは血が繋がっていない。  しかも彼の元を蛍が訪ねて来たきっかけは、この伯父の早雲にプロポーズされたからなのだ。  ……だから、早雲にとって、彼は赦すべからざる恋敵であり。彼にとっても、いかに彼女の保護者であった人物であるとはいえ、おいそれとは近づけたくない最も警戒すべき相手なのである。  いつまでもヘソを曲げ続けて気を使わせるのも、心苦しいとは思っているのだが。  それでも、やはり思うのだ。 早雲の元へは行かせたくないし。  蛍の誕生日なぞという、甘い感触の予感しかない、その日は。 どうでも、彼が、それを十二分に祝ってやりたい、と。 ……いっそ不養生でもさせて、出発の当日、風邪でもひかせてやろうか。  そんな元医者らしからぬ悪だくみさえ浮かびそうになる。  再びつきそうになったため息を、珈琲で啜り込み、彼はジットリとまた眉を深く寄せた。
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