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赤いボールペンを走らせながら、田渕は結衣に問いかけた。
「神田は進路を決めているのか?」
結衣は苦味の中に甘さを漂わせるコーヒーの香りを吸い込んだ。
「保育士になりたいんですよ」
「保育士ねぇ。少子化の一途をたどっているからな、厳しいと思うぞ?」
「そうなんですよね」
目下の悩みはそこだ。
待機児童を抱えながらも、保育所は頭打ちだ。
民間の保育所も、認可が降りるのは限られた少数。
資格を取っても働き口がない可能性が高い。
だが、自宅が保育所の近くで、園内で遊ぶ幼児の姿をよく見かける環境に育った結衣は、あのキラキラした瞳に囲まれて、遊んだり歌ったりする保育士に憧れていた。
たくさんの子供たちに囲まれるという点においては、保育士も高校教師も同じだろうと、結衣は田渕に話題を向けた。
雨の音に消されないように、声を大きめに出す。
「先生、教師って楽しい?」
「教師か。
……やむにやまれず選んだ職業だからな。楽しいと思ったことはないな」
そう、俺はこんなことがしたかったんじゃないんだよ。
田渕は小さく呟いた。
その呟きは結衣には届かない。
子供たちに囲まれて一緒に笑う、少し大人びた結衣の姿を、田渕は朧気に思い浮かべた。
そして、この純粋無垢な女子生徒を汚そうとする己の残虐性に、苦笑を浮かべた。
そう、そうやって俺と話していればいい。
君が勝てば、俺も道を踏み外さずに済む。
田渕は理性と欲望の境界線を歩いていた。
教師としては賭けに負けたかった。
しかし、田渕という人間としては、賭けに勝ってしまいたい気持ちを抑えられずにいるのだ。
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