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「さて、と」
引き出しにレポートをしまい、鍵をかけると田渕は立ち上がった。
そして窓の外に目をやる。
普段悠々と枝を伸ばしている校庭の桜の木が、今日は倒れまいと必死に抵抗しているように見える。
どす黒い雲は我先にと争いながら空を駆け抜け、置き土産の雨粒が激しく地面を叩いていた。
窓にへばりついた緑色の小さな葉は、どこからか引きちぎられてきたのだろう。
あまり時間がない。
「もう一度校舎を見回ってくる。
そろそろ帰り支度をしなさい」
田渕は底に薄くベージュ色の輪を描くコーヒーカップを手に取った。
「ごちそうさまでした」
いつものように結衣は笑う。
自分のカップと結衣の使ったカップをシンクに下げて、ぬるま湯を張った。
時間が経って底で乾いたコーヒーも、見回りから帰って来た時には、再び溶けて落ちやすくなっているだろう。
田渕は部屋を出る前、結衣の傍らに立った。
艶やかな髪、白い肌。
どこかあどけなさを残しながらも、大人の女へ近づいている少女は、不安定な色香を放つ。
それがいたく田渕を刺激した。
負けるなよ、神田
田渕は心で祈る。
己と結衣の保身を、無責任にも結衣一人に託すことに享楽を覚えながら。
パイプ椅子に座ったまま、結衣は田渕を見上げた。
田渕が自分を見つめている。
鼓動がいつもより早い。
ふと。
田渕が身を屈めた。
その一連の動きが、結衣にはスロウモーションのように見えた……。
僅かな空白の後、田渕はクスリと笑って生物準備室を出た。
パタンとドアが閉まる音を、結衣は激しい心音と共に聞いた。
五月蝿い雨の音も、唸る風の音も、結衣の耳には届かない。
ただ結衣に残ったのは、後頭部に添えられた田渕の右手の熱と、額に押し当てられた田渕の唇の感触だった。
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