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「そろそろ帰りなさい。
それから、ここに寄り道しないで受験勉強したほうがよっぽどいいと思うぞ?」
田渕は夕焼け色に染まってきたグラウンドをちらりと見て言った。
「はぁい」
田渕の気分が変わってしまった。
原因を作ってしまったのは結衣なので仕方ない。
すっかり冷めてしまった甘いコーヒーを一気に飲み干して、結衣は立ち上がった。
田渕は長居を嫌う。
その割に、結衣のコーヒーの好みを覚えて、黙っていても角砂糖二つとミルクポーションを二つ、かき混ぜたものを出した。
田渕とて、当然気付いている。
結衣の目的が、他愛ない話でもコーヒーでもなく、田渕そのものだということに。
まだまだ青二才とはいえ、三十手前まで人生を積み重ねてきたのだ。
純粋すぎる瞳の奥に見え隠れする、結衣の気持ちに気付けないわけではない。
しかし、それを受け止めることは出来なかった。
そして、結衣もまた『教師と生徒』という立場をわきまえていた。
是が非でも見えざる壁を突破したいと、切実に願っているわけではない。
ただ、他の生徒よりも少しでも多く、『教師』ではない田渕の顔を知りたいだけだ。
只し、もしその立場を乗り越えてもいいと田渕が思ってくれるなら、全てを差し出してもいいという覚悟くらいは持ち合わせていた。
「そのままでいいよ。僕が洗っておくから」
相手は大人だ、必要以上に近寄らせてくれない。
田渕から見れば、自分はまだまだ子供なのだと結衣は痛感する。
「ご馳走さまでした」
「どういたしまして。
明日僕は出張でいないから、来ても無駄だよ」
全く相手にされていないかと言えばそうでもない。
些細な一言に喜びを覚える様は、さながら構ってもらえば尻尾を全力で振って喜ぶ、飼い慣らされた犬のようだと結衣は思った。
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