第1章

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直慶親子を亡き者にせんとする動きが目に見えて感じられるまで、数日とかからなかった。八重の方を支持する家老をはじめ、古参の臣たちは次々に失脚、あるいは切腹においこまれ、どっちつかずの中立派は我先にと倉の方の派閥についた。さらに、倉の方の背後には若年寄の臼井(うすい)近(ちか)胤(たね)がついている。 臼井は若輩の身でありながら、その俊才ぶりをかわれてのし上がってきた新参者である。下士の生まれではないかという噂もあるが、近年は藩主の絶対的信頼を得、家老と同等、あるいはそれ以上の権威をふるっていた。 そんな臼井が定広を擁立している以上、もはや直慶は孤立無援も同然だった。頼みの綱であった家老はすでに隠居させられ、母の八重は寺に預かりの身となっていた。 「若殿、もうまもなくでございまするぞ。まもなく萱野の里につきまする」  若殿、と呼ばれた堤直慶は、疲れ切った顔に必死に笑みを浮かべて声をかけた相手を見返した。 「おお、そうか。弥兵衛の縁者の家であったな。世話をかける」 「とんでもございません。もとは亡妻の実家でしたが、はやり病で皆亡くなり、今は無人の破れ屋でございます。むさくるしゅうございますが、お気遣いは無用です。前もって、娘の美弥に掃除と飯を申しつけてございますゆえ、すぐに腹ごしらえもできるかと存じます」 「そなたの娘か、それはありがたい」 「娘といっても、まだ十になろうかという子供ゆえ、あまり期待はできませぬが」 「なに、食えればよいではないか」 自分もいまだあどけない少年は、ははは、と目を細めて愉快そうに笑い、笑った先からぐうと彼の腹が鳴った。 ――大したものだ。 そう弥兵衛は思った。 ここ数日の激動に、のまれそうな心を保つのは若い直慶には容易なことではなかったはずだ。ましてやあらかたの重鎮が敵にまわった中、母の身を案じながら、数少ない支援者とともに生き延びねばばならない不安と心痛は、察して余りある。 それでも腹を鳴らすというのは、物を食う欲があるということだ。生きようという気力があるということだ。  この生白い痩せた少年が思いのほか豪胆なことに、弥兵衛は驚き、そして安堵していた。  ――この若君ならば、きっと藩を正しき方向へ導いていくだろう。ならばなんとしてもお守りせねばなるまい。 弥兵衛はあたたかな眼差しを直慶に送ったが、すぐに頭に浮かんだ別の考えに表情をこわばらせた。
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