第1章

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 弥兵衛の母も、もともとは自分に娘ができたら伝承するつもりだったのだろう。しかし、生まれた子供は弥兵衛のほかにも男子ばかりであった。幸い、弥兵衛に娘が生まれたため、自分の死期を悟った母が、早々にいまだ幼い美弥に飛燕をたたきこんだのだ。  そしてその母もまた、昨年亡くなっている。 「では、片平雪斎親子は思い違いをしたまま死んだのか」 「は。思えば哀れな者たちでございましたな」  あのとき、風雪はまだ息があったのだが、その場で自ら腹を斬ってしまった。生き残って責められることを怖れたか、あるいは生き恥をさらしたくなかったのかもしれない。  ふいに直慶が、すくっと立ち上がって言った。 「美弥、私にも飛燕の技ができるだろうか」 「え、若殿に、ですか?」 「うむ。私もまだ体が小さいゆえ、ぜひとも習得してみたいと思ってな。美弥に教えを乞いたい」 「え、教えなどと、私には……ねえ、父上?」  戸惑い、助けを求めるかのように美弥が弥兵衛を見上げてくる。やれやれと、弥兵衛は苦笑しながら、軽く咳払いをして口を開いた。 「若殿には、これから藩主として学ぶべきことが山ほどおありでしょう。ですから、ここはひとまず政(まつりごと)のほうにお力を注いでいただき、剣のほうは私どもにお任せください。この弥兵衛、美弥ともども力の及ぶ限り若殿をお守りいたします」  弥兵衛の言葉に、直慶は残念そうな表情を浮かべたが、すぐに力強く笑って見せた。 「……そう、だな。うむ、そうだな。私は何も知らない若造だが、藩主として、国のために、皆のために、出来うる限りの努力をしよう。弥兵衛、美弥、これからもどうか私を支えてくれ」 「は。心得ましてございます」  先ほど臼井近胤と倉の方は断罪となり、その首はいまだ中庭に置かれている。  取り調べの結果、臼井はもとは商家の三男であったことが判明し、倉の方とは同郷の出で夫婦同然の間柄であったことがわかった。  さらされた二つの首を見て、弥兵衛はむなしさを感じずにはいられない。  全てはここから始まったのだ だが今、一つの時代が終わり、また新しい世が始まろうとしている。 見上げれば、大きな夕陽が山の彼方に沈みかけていた。その陽に頬を赤く照らされた 直慶と美弥を、弥兵衛はいつまでも見守っていた。 ―終―
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