4-6 灰色の家 

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 入学当初から寮住まいだった美紗は、大学から電車で二時間ほどの所にある実家に、月に数回ほど顔を見せた。しかし、父親の失職後は、いつ帰っても、両親は口論してばかりだった。  家にいるだけで何もしない父親と、ライターの仕事にかかりきりの母。  美紗の目には、自分が勉学を続けることで、両親の関係がますます悪化していくように見えた。特に、学業資金を少しでも援助しようと奮闘する母親には、心苦しさを感じた。無事に卒業して就職し、早く母を安心させたい。その思いが、留学をあきらめた自分を奮い立たせる原動力となった。  母親は、しかし、美紗の想像とは少し違う方向を向いていた。それに気付いたのは、三年次の正月に帰省した時だった。  失職して一年半近くが経っても、父親は再就職を目指そうとせず、相変わらず家にこもる状態だった。  深夜に人の声で目が覚めた美紗は、自室から出て、リビングのほうへ向かった。明々と電気の付いた部屋からは、明らかにアルコールの入った父親の乱暴な声が聞こえてきた。  これまで家族の生活を支えてきたのは俺だ。  百万そこそこ稼ぐようになったからって、何を威張っているんだ――。  酔っぱらいの言いがかりに、母親はヒステリックに応じた。 「私だって、あのまま勤めていれば、今頃は平均年収くらいの給料はもらってたわよ。誰のせいで会社を辞めたと思ってるの? 美紗が生まれなければ、ずっと働いていられたのに。私がお気楽に子育てを楽しんでたとでも思ってた? 人の人生をへし折っておいて、何よその言い草!」  『美紗が生まれなければ……』  女の会社勤めは所詮「腰かけ」と言われた時代、美紗の母親は、厳しい就職戦線を経て小さな出版社に入り、苦労の末に社内の信用を獲得して、当時は数少ない女性編集者の一人となった。仕事が軌道に乗る中、学生時代から付き合っていた美紗の父親との結婚には、簡単には踏み切れなかった。  しかし、突然の妊娠で彼女のキャリアはあっけなく終わった。当時は、産休育休という制度がないばかりか、婚前交渉は貞操に欠けるとあからさまに非難される時代だった。  追われるように退職して、慌ただしく結婚。その半年後に美紗が生まれた。  長い間結婚を待ち続けた父親が、意図的にそのような行為に及んだのか、本人以外には分からない。  確かなのは、美紗の母親が、娘の誕生を心待ちにしてはいなかったということだけだ。  人の人生をへし折って、と喚いた母親は、今にも手をあげそうになる父親に、本格化し始めたライターの仕事を辞める気はないと言い放った。 「過去の威光にすがるだけのあなたに、また人生を台無しにされちゃたまらないわ。私は、失った二十年間を、これから取り戻すんだから」  金銭的な問題にこだわる父親と、キャリアを潰された過去を恨むばかりの母親は、全くかみ合わない議論を延々と続けた。  美紗は、二人に気付かれないよう、そっと自室に戻った。
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