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「何と言われても、絶対に家に戻ってはだめよ。お父さんなんて、今は『女は結婚すればいい』なんて言ってるけど、あと五、六年もすれば、じじばばも足腰立たなくなって、日常生活にも介護が必要になるんだから。美紗がもしその時に家にいたら、きっと老人の面倒を見る羽目になって、一生あの家に縛られるのよ」
母親は美紗の目の前で、一度は真剣に愛したパートナーのことを、口汚く罵り続けた。
私が生まれなければ、お母さんは、好きな仕事を続けていられたの?
私が生まれなければ、お母さんは、お母さんの生き方を尊重してくれる別の誰かと結婚して、もっと幸せに生きられたの?
美紗は、その疑問を押し殺して、多額の祝い金を受け取った。
しかし、それから約一年後、母親は、美紗に何の連絡もせずに住民票を移した。「神谷」という人間の下に身を寄せたのは、おそらくもっと前のことだったに違いない。
あの百万円は、母から娘への卒業祝いではなく、侮蔑の対象でしかなくなった男の血を引く子供に対する、手切れ金のようなものだったのかもしれない――。
不愉快な回想を振り払うように、美紗は地下鉄の階段を駆け上った。
地上に出ると、自宅がある街とは違う、しかし、馴染みのある風景が広がった。四車線の大きな通りを、車がひっきりなしに通っている。金曜の夜だからだろう、足早に行き交うスーツ姿の人影が、やや多いように感じる。
高層ビルの窓明かりを眺めながら少し歩き、すぐに暗く細い路地に入った。何度か二人で来た道を、一人で足早に歩く。
突き当りにある十五階建ての雑居ビルに入ると、躊躇なくエレベーターに乗った。
なぜあのバーに足が向くのか、分からない。ただ、今だけは、誰もいない部屋に帰りたくなかった。かといって、「親が離婚したかもしれない」などと間の抜けたことを気安く話せる相手もいない。
とにかく一時でいい、自分の身を置く場所が欲しかった。
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