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美紗は淡々と、その時のやり取りをかいつまんで日垣に語った。
片桐は、自身が不利な境遇に置かれていると盛大な愚痴をこぼしていた。その彼に、美紗は「留学の機会を逃した自分も同じような引け目ともどかしさを日々感じている」と心の内を吐露した。急に悲しそうな顔をした1等空尉は、真顔で頭を下げていた――。
「片桐1尉は、確かその時に、『心を入れ替えて精進する』って言ってましたけど……」
「なるほどね。口ばかり達者な甘ったれに、君が喝を入れたわけだ」
日垣は面白そうに含み笑いをしたが、美紗はきょとんとするばかりだった。
「失礼いたします」
衝立の向こうから声をかけてきたマスターは、無色透明なカクテルを、ゆっくりと美紗の前に置いた。グラスの中に沈むオリーブに刺し込まれた銀色のピックが、頭上の照明の柔らかい光を受けて、静かに煌めいている。
「今日は『いつもの』を飲みにいらしてくださったのでしょう?」
テーブルの上のマティーニは、静かに、しかし、毅然と佇んでいた。
マスターに会釈で応え、美紗はグラスに口をつけた。ジンの強烈な味が、心の中のわだかまりを、じわりと浄化していくようだった。
「この店が気に入ったなら、時々使うといい。たまにはこういう所でぼんやり物思いにふけるのも、いい休息になるよ」
耳に心地よい低い声に、美紗はわずかに頷いて微笑んだ。心なしか安堵したような顔を見せる上官に、いつかこの場所で、自分に帰る場所がないことを心穏やかに話せる日が来たらいい……。そんなことをぼんやりと思った。
「ここの客層は質がいいから、一人で来ても大丈夫だ。マスターは、もう君のことを『常連』だと思っているようだしね」
日垣はソファタイプの椅子に背を預け、カウンターのほうを見やった。美紗は、つられるように腰を上げて、衝立の向こう側を覗いた。
日垣が長年通うバーは、かなり照明を落としてあるにも関わらず、各テーブルに小さなキャンドルが置いてあるせいなのか、店内全体が温かみのある色に満ちていた。三面に広がる窓から夜の街が良く見える洗練された造りでありながら、マホガニー調に統一された空間は、不思議と懐かしさのようなものを感じさせる。
客はそれなりに入っているが、静かにアルコールを楽しむ話声と、店内に控えめにかかる音楽が、ほどよく調和していて、優しく心を落ち着かせる。
大都会の片隅にひっそりと存在する、まさに隠れ家だ。
「ただ、週末は私がいる可能性が高いから、それじゃ、やっぱり来づらいか」
美紗が振り向くと、日垣は、左手に水割りのグラスを持ちながら、反対の手で髪をかき上げていた。
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